夜は大抵、何らかの研究で遅くまで起きているものだから、朝起
きるのが辛いのだ。
特にこの時期は、朝、布団から出るのも一苦労。
新米フィーリの薄給では、夜を徹して暖房を炊くなど贅沢だ。
だから寒さを凌ぐために、厚着をして毛布にくるまって勉強してい
る。
お陰で効率が落ちるので、ついつい遅くまで粘ってしまうのだ。
学校は卒業したのに勉強とは、不思議に思われるかもしれないが。
役人タイプの研究員も居れば、私の様に生涯いち学徒で有りたい研
究員も居る。
前者は大体、政治の中枢を目指す人間だ、研究する時間が有ったら、
上役の奥様の誕生日プレゼントを選んだほうが時間を有意義に使え
ると思い込んでいる、そしてその手合いがほとんどだ。
私の専門は農業や酪農、あとは植物学と林業もかじっている。
それから医学も少々、医学なら内科と産科だろうか。
近頃の研究は、呪いの言葉をかけた牛と、祝福した牛のミルクの出
方の違いについて。
これは大変重要な問題だ、どう扱うかで持ち牛のミルクの量が変わ
るなら、酪農家の生活はずっと楽になるからだ。
ふわわーと、大口を開けて欠伸をしながら、私は通り道にあるポ
ストに、昨夜したためた手紙を投函した。
その前に、道中の安全を祈る言葉を乗せて、郵便屋さんが野党に
遭わない様に、この手紙が災難に遭わない様に祝福する。
単なる子供騙しのまじないだけれど、何もしないよりはましだろう。
この世界には沢山の奇跡の力が眠っているけれど、人間の身では、
それをやすやすと使う事が出来ない。
魔力を、道具に封じ込めて庶民にも使えるようにしたり、その為の
呪具や効果を発動させる紋様を開発するのが我々魔道士の仕事だ。
奇跡の発動を促すには、それぞれに、対をなす法則が存在する。
言葉のいくつかの組み合わせで色々な奇跡を引き出すのは、呪文と
呼ばれる代表的な方法だ。
紋様や、呪具の素材、言葉の抑揚のつけ方、香の匂い、術者のトラ
ンスの具合、などの無限の組み合わせから、安定した効果を生み出
すものを探すのは大変至難の業だ。
法則の探求作業は、砂浜で一粒の宝石を捜すのと同じ確率だと思え
ばわかりやすい。
だから、一生かけて呪文を一つも発見を出来ない魔道士が、ほとん
どだ。
ある紋様を刻んだ白樺の枝を喉に当てると子供の百日咳に効果的
だと発見したヴァテスは、名誉会員の殿堂入りを果たした。
さる新米フィーリは全くの偶然で、ある歌を逆向きにそらんじるの
とクローブの香りの組み合わせが、台所の火力を強める奇跡を生み
出す事を発見して、特許を取って左団扇だ。
ガサガサにあかぎれた手に生温い白い息を吐きかけながら、私は
遠い過去に思いを馳せた。
魔道がもっと発展していた昔、魔法使いは、指をくるりと回した
だけで様々な事が出来たそうだ。
今は物語の中にしか存在しない彼らの事は、想像するしか無いけれ
ど、実在していたのは確からしい。
名前を支配するだけで存在を操れたと言うのも、眉唾に思える。
真名と通り名をわける風習は未だに残っているけれど、すでに形骸
化しているし、いずれは廃れるだろう。
私は一応領主の娘だし、王国の伝統に乗っ取って産まれた時に真名
を与えられているけれど、先進的な庶民には我が子にそれを付けな
い人も増えてきた。
どうして、こんなにも不自由な生活になってしまったのかは、今
となってはわからない。
人間の生きる本能が弱まったからだとか、いいや、人為的な作用が
働いているのだとか、真名を名乗らなくなったのがいけないとか、
様々な説が叫ばれているが、どれも決め手に欠ける。
ただ言える事は、圧倒的な自然の力や幾多の苦難の前では、人間は
とても弱い生き物だという事。
だから、我々の研究が国家を挙げて重要視されているのだ。
(みんな、どうしているかしら)
私は、学院に入学して以来十年帰っていない、都よりもずっと寒
いだろう故郷の森を思う。
幼馴染と過ごした湖には、厚い氷が張っているだろう。
早くも草原に雪は降り積もり、冬の干草をためた馬やどで、子供達
は大暴れをして母親に怒鳴られているだろう。
部屋の中には天井にぶら下げた保存食の匂いが立ち込めて、悪戯気
分でパチンコを当てた少年が怒られているに違いない。
秋からこっち外では、日々、魚の燻製やベーコンを作る為の、桜の
チップの煙が上っているだろう。
いつかは帰らなくてはならないと思っていたけれど、早くもその
時がやって来るとは、さすがに予測もしていなかった。
(まあ、仕方が無い)
感傷をあっさりと振り切って、私は銀枝宮に急ぐ。
遅刻をした所で怒られはしないが、むしろうちの上司は遅刻が大の
得意技だが、私の性格がそれを許せない。
水産研究所に勤務するフィーレ、エイドリアン・アップルガース
は、私にとって数少ない、まあいいだろうクラスの友人だ。
まあいいだろうは、私にとっては最大の賞賛である。
彼は、名家アップルガース家の子息でありながら奢った所が無く、
性格はいたって謙虚、善良、温厚と、好ましい人物だ。
当たり前の美点とは言っても、大貴族に生まれてチヤホヤ甘やかさ
れていたら、そう育つのは難しいだろう。
家柄が宜しいためやどり木会のメンバーでも有るのだが、彼らとは、
当たり障りの無い程度に距離を置いている。
エイドリアンは私にとって、学生時代から気安い友人であった。
連れだってプレートに乗り込んで、私達は適当な世間話を交わし
た。
それから、付かないままだったチェスの勝負のために時間を取ろう
とどちらともなく言い出して、そこでプレートが終点に到着したの
で、昼を一緒にする約束をして別れた。
(ちょっと、やつれたわよね)
私は彼の面差しを思い浮かべた。
元から幸薄そうな、今にも泣き出しそうな顔だったけれど、近頃は
どんどん影が薄れて幽霊みたいだ。
そもそもエイドリアンには、こんな所で勤めるよりも、海辺で魚
でも釣っているほうが似合ってる。
彼は、人と競争するのが苦手だし、本当に気の弱い人なのだ。
でも彼には、アップルガース家の三男坊と言う重圧が掛かっている。
末は大臣と言われている大物の父親に逆らえず、仕方なく宮廷に出
仕しているというわけだ。
銀枝宮の中でお気楽に過ごせるのは、幸運なのか情けないのかわ
からないが、勤務先の「エレン特別部」だけだ。
他の部署では、何百と言う魔道士や役人がしのぎを削って、出世
レースを繰り広げている。
この、オンボロの掘っ立て小屋に居ると忘れてしまいそうになるけ
れど、ここは国家の中枢で、まつりごとが行われる場所なのだ。
(……ん、お客さん?)
馴染み深いボロ屋の前に、明らかにそぐわない、上等の馬車が一
台止まっていた。
一見すると飾りも少なく質素な馬車に見えるけれど、それはお忍び
用だからだろう。
周囲にさりげなく配備されている警護の武官を見る限り、相当地位
の高い人間が来ているのだろうと思われる。
又か、と私はそれを横目にしながら、ドアをくぐった。
エレンの所には、ちょくちょく貴族のお偉いさんがやって来る。
多いのは女性、男性は滅多に来ない。
彼女達が何をしに来ているかには、余り興味が無い。
立ち聞きするつもりは無いのだけれど「うちの夫が近頃帰らない」
とか「彼の愛を繋ぎ止めたい」とか、漏れ聞こえる内容から簡単に
推測出来てしまうのだ。
恐らく、恋占いとか、美しくなれる薬とか、その手の怪しげなまじ
ないを求めて貴婦人達はやって来ているのだろう。
私は密かに、貴人の閨の秘密を握っているお陰で、この部は存続
出来ているのでは無いかと疑っていた。
やれやれとため息をついて前を向こうとした瞬間、横っ面に衝撃
を感じて私は後ろに飛ばされそうになって。
「おっ?」
「ひゃっ」
渋いバリトンの主に二の腕をはっしと掴まれて、危うく後ろにひ
っくり返って、ペチコートを丸出しにするのを回避した。
「申し訳ない。大丈夫かなレディ」
「はい。ありがとうございます」
私こそ申し訳ありませんと慌てて腰を折って、私はポーチの端に
よけて貴人に進路を譲った。
フード付きのローブで全身を隠し、露出しているのは目元だけなの
だけれど。
落ち着いた物腰、がっしりと胸板が厚く背の高い、堂々たる美丈夫
のその男性は、一見して、高い地位の名のある騎士なのだろうと思
わせた。
支配者ならではの鷹揚な、しかし嫌味の無い態度で私に応じて、
彼はさっと衣を翻して馬車に乗り込んだ。
(んまあ、ス・テ・キ……)
ほう、と先ほどとは全く違う質のため息を漏らしながら、私は両
手を頬に当ててうっとりと見送った。
声の感じから、恐らく壮年以上の私の父上位のお年の方であろうと
思われるが、なんとも渋い騎士様だ。
やはり、男は逞しくて凛々しくないといけない。
それは私が特別マッチョ好きとか渋好みとか、そういう事では無く。
戦が多く、家長制が根強く残るこの国では、一般的な認識なのだ。
貧弱でなよなよした男は、無能とかオカマと侮られても、仕方が無
いのだ。
魔道研究者は別だ、頭脳労働なのだし、誰でもおいそれと出来る
仕事では無いから尊敬を集めている。
ひょろひょろしていて、しかも何もしていないようなタイプはと言
うと。
(……推して知るべし)
私は後ろ手に扉を閉めて、何やらキイキイと文句を垂れ流す上
司を冷たく一瞥して、礼儀正しくお辞儀をした。
「君が、おじ様好きとは初めて知ったよ」
「おはようございますヴァテス。いいえ、年配の男性に何らかの特
殊嗜好を持っているわけではありません。ただ、人の心を惹き付け
るオーラを出しておいでの方だと感心していたのですわ」
「私と言う物がありながら、ひどい人だね」
唇を尖らせて、エレンは私をじとっと睨んで、人さし指をつんつ
くいじいじと突き合わせた。
(相手にしてられないわよ)
いい年して何を言っているのかと心中冷たく受け流して、私は外
套を脱ぎながらさっさと先に入った。
むきいっ、と叫ぶフックに上着を掛けて、私は制服の上にエプロン
替わりの白衣を羽織って、ホウキを手に取った。
いい年してとは言いつつも、私はエレン教授の年齢を知らないの
だけれど。
ついでに言うと、エレンの身分や私生活も実は知らない。
巷では隠し子だとか、貴人の愛人だとかまことしやかに囁かれてい
るけれど、私も改めて聞いた事が無かった。
(私よりずっと年上とは、思えないけれどね)
さっさと床を掃きながら、後ろでまだ何か言ってる悪戯好きの上
司を無視して、朝一番の掃除にかかる。
そういえば、彼と同じ地位を与えられているエイドリアンの父親は、
もう五十の声を聞いていたと思い出しながら、エレンのガラクタ部
屋に入る。
テーブルの上に空のお茶セットが一つ。
先ほどの貴人にお出ししたのだろうか、うむ、感心感心。
手をのばそうとした瞬間に、ティーポットが蓋ごと、突如ぴょこん
と跳ね上がって。
「うっせー、ばかやろうっ!」
と絶叫して、注ぎ口からお茶をぶっと吐き出した。
「黙ってろってんだすっとこどっこい!」
ぶっ、ぶっ、ぶぶぶぶぶっ!
「この、クソ野郎がっ!」
ぶぶぶぶぶっ、ついでにぶしゅーっ!
「……まあ、口の悪いポットさんね。うふふ」
穏やかに、おしとやかに、めっと最後を締めくくると。
私のやけに静かな後姿に安心したのか、おそるおそると、近づいた
エレンがお伺いを立てる。
「だ、だいじょう、ぶ……みたいだね?」
「そう、思われますか」
顔からお茶のしずくを滴らせながら、私は彼に背中を向けたまま、
近頃増えた眉間の皺を引きつらせた。