「ねえアギレラ、風邪じゃないのかい」
「ううん、違うの。その……」
レモネードにはちみつをたっぷり入れたドリンクを飲んで、私は
友人に曖昧に微笑んで、首を振った。
「ちょっと、いつもの発声練習をね」
(怒鳴り散らしたせいでね)
「へえー、歌が趣味とは初耳だ」
「ええまあ、近頃ね」
(私も初耳だけど)
全く、嘆かわしい。
いい年した大人が、なんたる下劣極まりない物を作るのかと。
しかも事もあろうに、エレンが言い訳するには。
あれは客人に対して使おうと思ったのであって、アギレラを狙った
物では無かったと。
(あんなお上品な騎士様に、失礼よね)
我が王国では。
騎士とは、品格を備えていなくてはならないとされる。
技だけでなく、心栄え、振る舞いすべてが、人の尊敬を勝ち得なく
ては騎士とは呼べないのだ。
武官の間には、武人であらせられ、愛妻家であらせられる陛下に
倣って、質実剛健、清廉潔白を是とする風潮が有る。
例えば、女性に絡んだスキャンダルなどは陛下の最も厭われる所で
あり、それで不興を被った政治家も少なくは無い。
そんな相手に、妙な気を抱くはずが無いだろう。
それをおじ様好きだなどと、下種の勘繰りもいい所だ。
(気分が悪いわよっ。男って、助平な生き物なのかしらっ)
「まあ……ある程度はね、そうだろうね」
エイドリアンの声で我にかえる。
どうやら、無意識の内に口に出していたらしく、君にしては艶っぽ
い事を言うねと、人の良い友人がからかうように私に。
(あら、やだ)
「うちの父上なんて助平の典型的な例だけどね。母上は長年あの方
に泣かされておいでだよ。本当に気の毒になるよ」
エイドリアンが、ふーと息を吐いて紅茶をすすった。
何だか本当に、人生に疲れた部長の風情がムンムンと匂う。
寂れた雰囲気だけなら、彼はすでに悲しいほどに管理職クラスだ。
エイドリアンの父君アップルガース伯爵は、でっぷりとして脂ぎ
った、典型的なあれだ。
あれと言うのはつまり、近寄ったら手を握られたり、踊り子を眺め
てにやついたりする助平親父という事だ。
女癖が悪く、愛人を連れ込んでは家庭不和の種を作ると、エイドリ
アンは以前から悩んでいた。
時期水産大臣を狙う彼は、現在水産研究所の所長を務めていて、
やはり二級ヴァテスに任じられている。
さらに「王国の豊かな教育を担う会」の名誉役員を兼任しているの
を知った時には、皮肉な失笑がついぷっと出てしまったものだ。
「……ねえ、エイドリアン。あなた、顔色悪いわよ、疲れているん
じゃないの? 少し仕事を休んだらどうかしら」
「駄目だよ、父に怒られてしまうから。彼は我が家の暴君だから、
母も兄達も逆らえないんだ。外でも権力を握って、家でも彼は王だ
からね。何を言っても聞いてもらえないと思う」
見かねて、余計な一言と知りつつ私が彼に忠告すると、エイドリ
アンは肩を落として力無い声で答える。
「母上の嘆かれる姿を拝見していると胸が痛んでね。父が一度でい
いから痛い目に遭えばいい、少しは懲りるのではと、不謹慎な事を
考えてしまうのだ。いけない息子だよなあ」
いけないどころか、何てけなげな若者なんだろうと、私は感激し
きりである。
母親思いのいい子だ、今時珍しい好青年だ(同じ年だけれど)
「エイドリアン!」
「なっ、何」
私は感極まって、彼の手をはしたなくもがしっと握り締めた。
エイドリアンがおろおろと周りを伺いながら、遠慮がちに握り返す。
男女の仲を疑われたら、嫁入り前の私に悪いと思っているのだろう、
その時の私はうっかりそれを失念していたのだけれど。
「ねえ、私に力になれる事があったら、言って頂戴?」
「う、うん、ありがとう」
「何でも良くてよ? つまらない事でもいいのよ。私はあなたの味
方だから、どこからでも飛んで来てよ?」
「……はは、君は相変わらずだなあ。竹を割った様なさっぱりした
人だ」
エイドリアンが、私の勢いに鼻白みながらも、温厚そうな目元を
細めて白い歯を見せた。
お互いが子供の頃からの付き合いだ、彼には私の性格も多少把握さ
れてはいるのだが、それは構いやしない。
「でも、大丈夫だよ」
「じゃあいつでも、何でもおっしゃって? 遠慮は無しよ?」
「うん、わかった。ありがとう」
エイドリアンはそこで、ああそういえば、とぱっと思いついた風
情で呟いて。
一つ有るんだけど、いいかなと私を見た。
ドーム状の天井には、モザイクタイルで、古代神話や王国の伝承
が描かれている。
壁面には歴代の王の肖像画がずらりと並び調度品一つ取ってもずっ
しりと風格の有る、厳しい部屋だ。
ここは円卓の間だ。
王国の歴史を決める重大な決定が何度も行われた由緒有る会議室だ。
かつて、伝説の王と、その騎士達が円卓でまつりごとを行った故事
にならい、この部屋は作られたのだそうだ。
本来なら、私ごときが入っていい場所では無いのだけれど、今日
の会議は上の者数人で参加するのが慣わしなのだ。
うちの部はエレンの他には私しか居ないので、仕方が無く、いつに
なくうな垂れ小さくなって参加しているのだ。
円卓には、各研究所の所長クラスと、副所長がふんぞりかえって
座っている。
列席者は全員ヴァテスで、名の通った大貴族ばかり。
ふんぞりかえっても誰も文句は言えない立場のお偉いさんだ。
でっぷり太った、いかにも権力を握っていそうな顔つきのおじさま
が腕組みして、けんけんごうごうと、朗々たる美声で議論をたたか
わせている。
対するうちの部はと言えば、オカマの変人、ひょろひょろのエレ
ン教授と、その助手の貧相な小娘一人。
おまけにはなから頼りにはしていなかったけれど、唯一対抗出来そ
うなうちのトップは会議が始まるなり、ばたりと顔を伏せてうたた
寝を始めてしまった。
慌てて何度も突いて起こすものの、目を離したらすぐさまこっくり
こっくりと船を漕ぎ出す有様。
(ヴァテス! エレン! 起きて下さい)
ペンで肘を突いて声を掛けると、んー? と寝ぼけた顔を上げる。
「君におこされるだなんて、私は王国一の果報者だ」
(馬鹿な事を言って無いで、お願いだから起きて! もうすぐ我々
の番なのですよ!)
「そんなの、君も寝たふりしちゃえばいいのにい……でも、君のお
ねだりなら聞かずにはいられないね。私は哀れな君の奴隷さ」
うふふー、と夢の続きを見ているみたいにエレンはほんのり微
笑んで、その舌の根も乾かぬ内から、こっくりと首を縦に揺らした。
(こ、このダメ上司だけは……!)
ぐっと拳を握りそうになるけれど、労働とは、忍耐の連続である。
私はこれに耐えてこそ、給料を手にする価値が自分に生まれると思
っている。
日々好きにやらせて頂いているのだから、これ位は仕事の内だと納
得しなくてはならない。
……正確には、そうとでも思わないとやってられないのだ。
私は忌々しげに、表紙の肖像画に眉毛と鼻毛を描き加えたと思わ
れる、エレンのぐしゃぐしゃの資料を睨んだ。
ご丁寧に噴出しが横に飛び出していて、そこには「ボク変なオジサ
ンよろしくね」と書き加えられている。
(……給料の内、子守も給料の内なのよ)
建国の偉人、大賢者グレンノールの肖像画に落書きするとは、な
んと罰当たりな魔道士だろうか。
確かに胡散臭いと心ひそかに思っている、信心薄い私でさえも、本
音は心の中だけにしていると言うのに。
「では、次。エレン特別部」
「は、はいっ」
私は用意して来た、昨年の予算使用報告についての資料を握り締
めて、震える足で立ち上がった。
私などが簡単に吹き飛ぶような立派なお立場の、重鎮のお歴々が、
一斉に私に注目する。
(いやーんっ、誰かたすけてーっ)
私は冷静になろうと、唾を一回飲み込み。
それから資料を、なるべくしっかりとした声で、淡々と発表した。
そもそも、「○○研究所」とか「××国家機構」とか、その素敵
に公的な肩書きの中で、唯一「エレン特別部」だ。
一体どこの学校の部活動かと、人は思うだろう。
その上、ごく潰しの長が日々遊び暮らしていると評判の我が部署
には、にも関わらず多額の予算が毎年回される事になっている。
一番予算が行く軍事関係とまでは行かなくても結構な額なのだ、そ
れを何に使っているのか、果たして必要なのかと、毎年水面下で疑
問視されている。
その中で、極秘の任務を負っているからとの理由で勅令が下り、毎
年、我が部には他の研究所並みの予算が下りる。
我が国の七不思議と、経理の皆様にまで揶揄される近頃だ。
その険悪な雰囲気の中で、私みたいな平役人の小娘が来年の予算
案の審議に参加するのだ。
おまけに上司はいびきを掻いて夢の世界、周りのおじ様達は彼を呆
れたように眺めて、突きあって何か言っている。
同じ状況で平然と振舞えたら、その人は賞賛に値するだろう。
(今朝、もっとやっつけておけば良かったわよ)
と不穏な殺意を抱きそうになる私を、誰が責められるだろうか。
私の発表の後に、気まずい沈黙が訪れた。
誰一人として拍手をしない、する気になれないのだろう、しかしそ
の心境には概ね同意を示したい。
小さくなりながら私が座ろうとすると、一人の男性が挙手して発
言を求めた。
エイドリアンの父君、アップルガース伯爵だ。
「宜しいかな」
議長が頷くと彼は立ち上がって、演説を始めた。
情勢が緊迫しており、春には出兵の可能性が高い昨今、軍事に回
すならともかく。
何をしているかもわからない部署に、無駄に予算を回す必要が有る
のかと、ごもっともな伯爵。
(全部、同意しますわおじ様)
私は頷きそうになる自分を、最後の理性で押しとどめた。
ただ、運悪くつるし上げられる羽目になっているのが私だと言う事
だけが、納得の行かない部分なのだけれど。
(私は平ですっ、エレンか陛下に聞いて下さいっ)
さすがの私も、そうだそうだと重鎮の皆様が声に出して同調する
段になって、しみじみと自分が哀れで泣きたくなって来た。
私に言われたって困るのだ、こんな小娘に文句を言うのはいじめみ
たいなものだろう。
(ひどいわひどいわっ)
「む」
一声上げて伯爵は、唐突に奇妙な表情で固まって口を閉ざして。
脂の乗った小鼻を拡げて、不自然にぴくぴくさせ出した。
(……?)
もが、もが、もが、と顔の片側を引きつるように歪めさせて彼は。
それから、は、は、は、と口を何度かぱくぱくさせて。
ぶえーっくしょん!
と盛大なクシャミを一発。
空中に、たくさんの光の粒が拡散して放物線を描いた。
(きたないわね)
口くらいきちんと抑えて頂きたいものだけれど、まさかそれをこ
の場で伯爵に言うわけにも行くまい。
黙って見守る一同の前で、彼が再び大きなクシャミ。
(風邪かし)
クシャミ二発。
(あら、まあ)
クシャミ三発。
(いやだわ)
ぶしゅん、四発目。
そろそろ、何かがおかしいと思い始めた時に、かさかさいう小さ
な音を、私の耳が拾った。
立ったままそっと下目使いに伺うと、私の上司が。
底意地の悪い顔でくすくすと笑いながら、伏せた頭の陰で、何か
の作業をしている。
さりげなく観察していると、彼は資料を破りとって、指先で小さな
折り紙をしているのだった。
それからペンを手にとって、羽虫と見受けられる小さなそれに、
文字をちょこちょこと書き込んで、手のひらに載せてふっと吹くと。
まるで生きた虫のようにそれは羽ばたいて飛び上がって、伯爵の鼻
をめがけて……。
「ぶえーっくしゅん!」
伯爵が盛大なクシャミ五発目。
狸寝入りを決め込むエレンの後頭部が、笑っているとおぼしい小
刻みな揺れを見せている。
(こ、こ、このっ、この人はっ)
人を放り出して、何を遊んでいるのか。
怒りにわなわな震える私には気が付かず、エレンは、今度は大き
な紙をびりと破りとって。
素早く拳大の蟹を折りあげた。
ハサミも足もリアルな、大変上出来な逸品である。
(まさか)
エレンが背中に当たる部分に何か書き込んでぶつぶつと呟くと、
蟹はハサミをちょきちょきさせながら元気良く動き出して、円卓の
下に素早く消えて行った。
……それは、さすがに洒落にならない。
(やめてくださいっ)
私が足で彼を蹴ると、エレンは。
「だめだめ。アギレラを苛める奴にはお仕置きしないと」
と、明らかに筋が違う事を、ひそひそとのたまった。
(だったらあなたが、最初から前に出てくれたらいい事でしょう)
こめかみがぴくっと引きつって、その言葉が喉元まで出かかる。
いや、そんな場合では無いのだ。
クシャミの発作が収まったと見るや伯爵は、拳を口に当ててうおっ
ほんと、取り成すように咳払いをした。
その腿のあたりに、早くも到着した蟹が、横向きになってよじ登る
のが見えた。
ハサミを開閉させながら、狙うはふくよかな臀部だろうか。
「失礼した。引き続き……」
蟹が演説を続ける彼のズボンのポケットに足を引っ掛けて、ハサ
ミを思い切り振り上げた。
伯爵が、陛下の御心……、と言ったあたりで私はぎゅっと集中して。
(やめなさいっ)