いよいよ来週はサウィン祭りの本番、十月の最後の週だ。
簡素な自室には生活の調度はほとんど無いけれど、文献や研究論文
だけはやたらと多い。
箱や棚に詰め込まれて小さな部屋に所狭しと並んでいるあれを、週
末に一気に荷造りするつもりだ。
私の辞表は、月の頭にとうに本部に受理されている。
だからエレンの耳にも入っている筈なのだけれど、彼には知らせが
届いて無いのだろうか。
それとも、失念されているのだろうか。
エレンが何も言って来ないのが、気になっていた。
本当はまずは上司に報告して、それから上に届けるのが筋だと承
知していた。
けれど、私は何となく言い出せずに今日まで来てしまっている。
今日こそはエレンに報告しよう、しようと思いながらも、つい言い
そびれてずるずると……。
「おはようございます、ヴァ……」
お約束の朝の挨拶を口にしながら扉を開け放つ。
隙間から何かが勢い良く飛び出して私の横をすり抜けた様に思って、
私はそれを目で追った。
(……あら?)
背後には普段通りの、庭師の手入れさえも届かない剥げた芝生と、
その向こうに広がる雑木林があるのみ。
(おかしいわね)
今、確かに。
透明な翼の生えた、小さな生き物が、何匹か飛び出して行った様に
思うのだ。
奇妙な生き物だったように思う。
何に似ていたかと言うと、あえて言うならばあれに似ていた。
伝説や子供の絵本にのみその存在が語られる、小さな有翼の人型の
生き物、妖精――シー。
……に、似ていた気がする。
見間違いだろう。
恐らく、大きな羽虫か何か、その手合いなのだろう。
この季節にまだ生きているというのは、なかなか気合の入った虫で
ある事だ。
疲れているのだろうかと首を捻りながら再び扉を正面にしようと
して私は、驚きに目を見張った。
(な……何? ここ、どこ!?)
私の正面には。
鬱蒼と木が生い茂る、灰色と緑の森が広がっていた。
樹齢何百年にもなろうかと言う立派な大木がびっしりと並んだ、そ
の間には低い背丈の藪。
藪の根本には、日陰でも育つ苔や、雑草が繁茂している。
奥には泉がその姿を垣間見せ、光を跳ね返してキラリと光った。
私の頭上から、ほろろろ、とか、ぴぴぴぴ、とか、鳥の優雅な鳴き
声が降ってくる。
ここはまさしく、生き物が生を謳歌する緑の楽園。
……の筈は無いのだけれど。
だって私は今「エレン特別部」のボロ屋の扉を開けたのだ。
ドアを開けたら、まず、ちょっとした空間がある。
左にはコート置き場が有って、そこにはエレンお手製の叫ぶフック
や受け取るフックが留め付けられているのだ。
そして正面には足洗い場、その横に、外用の箒とバケツ。
床は石で、この小さな土間で外の埃を落としてもいい構造になって
いる。
右に向かうと衝立の向こうに。
応接間を兼ねた私の勤務する部屋が有る。
……筈なのだけれど。
……おかしい、ここはどこだろう。
振り返ると、私が入って来たばかりの扉は消えうせていた。
私の後ろも森だ、前を向いても森。
どこを見ても、扉が見当たらない。
つまり、私は唐突に見知らぬ森のど真ん中に放り出されたという
訳だ。
私が夢を見ているのでなければ、そういう事になる。
私の背後すぐで森は途切れて、その先には藪がしばらく続き、そ
の向こうには、緑の野原が広がっている。
花が咲き乱れる野原の中央に、丸く輪になって、羽の生えた奇妙な
生き物がぐるぐると手を繋いで回っていた。
飛んだり歩いたりしながら回っているそれを見て、私は心中で叫び
声を上げた。
(何じゃありゃー!)
……ごほん、失敬。
お下品な、姫にあるまじきはしたない声を上げて申し訳ありません。
何せ、私にはくだんの生き物が、妖精に見えたものですから。
我々の時代、トゥアハ・デ・ダナーンはとうの昔に海の向こうに消
えて、それに伴ってシーや幻想の生き物達も、もうどこかに居なく
なったというのが通説だ。
この魔道科学時代に妖精などが居るはずが無い、私の見間違いだ。
もう一度、私は前を向いて、やはり自分が森のど真ん中にぽつん
と立っている事実を確認した。
ぐるりと見回し、振り返り、やはり野原には奇妙な生き物が飛んで
いる事も再確認。
(……ありえないわ)
何にせよ、おたおたしていても始まらない。
現実問題、私は扉を抜けたらここに居たのだから、この現象を解き
明かすべく行動せねばなるまい。
私は研究者であり、真実の探求こそが私の本分である。
日々我が部署のライバルを蹴落としているあれは、ほんの手すさび
の副業であって。
この世の理を明るみにする事こそが、私の本来の使命なのだ。
私はスカートをたくしあげて、腰のベルトに挟みこんだ。
じゃないと枝に引っ掛けて破れてしまうし、誰も見ていないのだか
ら構いやしないだろう。
それからごくりと唾を飲み込んで、周りを警戒しながら藪に分け入
った。
まずは、あれだ。
あの珍妙な生き物に近づいてみよう。
出来るなら捕獲して持ち帰り、研究してみるのもいいかもしれない。
……帰れるなら、だけれど。
ここがどこかもわからないようでは、帰る方法も見つけられない。
その為には弱気は禁物、探検あるのみだ。
ぐるぐると輪になって回る、シー(あくまで仮名)が十匹程。
その横に、私はすぐに、人間族とおぼしき後姿を見つけた。
すらりと背の高い、痩身の人物だ。
ヘーゼルの長い髪を後ろに垂らし、地面に届く手前で無造作にまと
めている。
あれを解いたら恐らく、床に届いて流れるだろう程の長さだ。
だから女性にも思えなくは無いが、あの体格を見る限り、恐らくは
男性であろう。
藪に身を潜めて、私は「彼」を観察した。
これまた、いまどき何と、大仰で古めかしい装束であろうか。
体に布を巻きつけて、足には編み上げのサンダルを履いている。
手にはコブだらけの長い杖を持ち、腰には剣を帯びている。
露出した腕や足には、奇妙な紋様がびっしりと描かれている。
物語や、お祭りに出てくる古代のドルイドさながらだ。
「彼」はシー(あくまで仮名)達の横に立って、彼らの様子を眺
めているようだった。
時折、体を笑っているとおぼしき風に揺らしながら、シー(あくま
で仮名)に向かって話しかけている。
その腕も、首も、耳も、じゃらじゃらと装飾品で飾り立てている。
いまどきあんな格好をするのは、昔ながらの神事を執り行う神官
か、コスプレマニアのおじさん位だろう。
怪しい。
明らかに胡散臭いがしかし。
「彼」以外に道を訊けそうな人物は見当たらないし、この軽装で
森を抜けるのはいささか心もとない。
武器を持っているのが気になるが、少し観察した限りは、悪い人物
には思えない。
思い切って近づいてみようと藪から踏み出して私は、声を掛けよう
と口を開きかけた。
その時「彼」が振り向いた。
正確には、振り返ろうとしたのか、上半身を気持ち動かした。
その刹那。
大きな音が耳に飛び込んできて、私はびくりと体を震わせた。
「おはよう、私の助手さん。ここで何をしているの?」
私の目の前で、手の平が合わさっている。
それが真横に開かれた。
二本の腕の向こうで、怪訝そうな表情をした上司が、私を覗きこん
でいた。
「……おはようございます、ヴァテス」
瞬きをしながら私は左右を見回して、自分が扉の前に立っている
事を発見した。
体がこわばって冷え切っている、どうやらここに、長い事立ってい
たらしい。
「扉を開けたら君が、ぼんやりとして突っ立っているんだもの。ど
うかしちゃったのかと思って驚いたよ」
「扉の前、ですか。私、中に入ってはいませんでしたか」
エレンが扉を引いて横に避けてくれるのに礼を言って、私は玄関
に入り、外套の第一ボタンに指を掛けた。
いつも通りだ、何もかも。
左には外套を掛けるフック、正面には足洗い場。
古びているけど、日々私が磨きこんでいる石の床も普段のまま。
「いいや? 足音がしたと思ったら、扉の前で止まって。そのまま
入って来ない物だから、てっきりお客様かと思って見に来たんだ」
「そうですか」
「あんな所でじっとしていたら、風邪を引いてしまうでしょう。も
う寒いのだからね」
「そうですね、気を付けます」
エレンがにっこりと笑って、足に擦り寄って来たブラックを抱き
上げて、お気に入りのロッキングチェアに座った。
私はその姿を見送って、首を捻りながら外套を脱いで放り投げた。
壁に掴まった木彫りの猿が、うきっと鳴いて手を出して、それを引
っ手繰った。
エレンは声を出すタイプが可愛いと主張したのだが、私はそんな
実用性が薄いフックはいらないと言ったのだ。
お互いの意見は平行線を辿り、結局エレンが譲歩して。
鳴きながら手を出して受け取るこの猿に、最終的には落ち着いた。
手首よりは見栄えもいいし、これなら便利だからいいかと、私も納
得している。
(さっきのは、何だったのかしら)
朝っぱらから白昼夢だろうか、今、職場以外の場所に飛ばされて
いたように思ったのだけれど。
そうに違いない、起きたまま寝ぼけたのだ、お恥ずかしい話だ。
ちょっと……夜更かしが過ぎているかもしれない。
今日は早く帰って、さっさと寝るべきだろう。
やけに足元がすーすーすると思いながら暖かい室内に入ると、エ
レンがきゃっ、と黄色い声を上げた。
「何ですか」
気持ちの悪い声を出して、エレンが片手で目を覆う真似をする。
エレンはこわごわと手の横から私を伺って、困った様な顔で目を横
に逸らした。
「アギレラ。大変言いにくいのだけれど」
「はい」
「君……スカートが上がっているよ」
ぎょっとして私は自分の腰から下を確認する。
スカートの端がベルトに引っかかって、腿の半ばまで露出している
状態だった。
道理ですーすーする筈だ。
蒼白になって、それから赤くなって、私はスカートを慌てて引き摺
り下ろした。
(みっ、見たわねっ)
朝、スカートを履く時にベルトに引っ掛けたのだろうか、全く気
がつかなかった。
乙女の生足を見られたっ、……いや、生足なら、まだしも良かった。
今日は寒かったので、うっかり下にアンダードロワーズを履いてい
たのが非常にいただけない。
下着を見られるだなんて、とんでも無い話だ。
エレンがわざとらしく咳払いをしながら、曖昧な表情で何度も頷
いた。
「あー……うううーん。見てないから大丈夫」
「ほんとですか」
「うん。可愛いフリフリでブルーのリボンが付いていただなんて、
ちっとも見てないから安心していいよ」
「……ご覧になっているじゃ無いですか」
責めるような目をして私がじとりと睨むと、エレンがそ知らぬ顔
でブラックの背中を撫でた。
下着を見られてしまうなど、何たる屈辱。
お嫁に行けなくなってしまうでは無いか。
いくら婿養子でもいいとはいえ、ヒグマでも構わないとはいえ。
どう考えても好ましい事では無いのだ。
「私がお嫁さんにしてあげるから、安心して?」
にっこり笑って、エレンが取り成すように口にする。
始まった、と私は澄ました顔でそれを流して、朝の掃除に取り掛か
るべく白衣を羽織って髪を縛った。
(本当に、冗談が好きなんだから)
私は忙しいのだ。
この部署の経理、庶務、営業、その他諸々の雑用を、すべて一手に
引き受けて回しているのだ。
まさしく八面六臂の活躍であるのだ。
日なが一日ロッキングチェアでうたた寝しているぐうたら上司の暇
つぶしのセクハラに、いちいち付き合ってはいられない。
さあ、今日も一日働くぞっ。
エレンはそこで言葉を濁して、考えを巡らしている風情で視線を
窓の外に彷徨わせた。
表ではアギレラが、かいがいしく枯葉を集めている。
ふわふわの赤毛をきっちりと一本の三つ編みにまとめて、その上に
三角巾を被り、アギレラは真剣な顔でせっせと働いている。
「アギレラチャンってす五いわよね。ナニみてもなかったコトにし
ちゃうんだもん。ニブイってユウかズブトイってユウか」
「ね。時々口に出してない事にまで間違えて返事しちゃっても、全
く気がつかないしね。お前の足を踏んじゃってさ、お前がイタイ!
って叫んだ時だって、さらっと流しちゃうし。猫が話すはずが無
いって信じてるから、聞こえても残らないんだろうね」
「……オオモノね。あるイミ」
やけに人間臭い仕草で、ブラックが肩をすくめて眉……ではなく、
ひげをぴょこっと上げた。
彼女がここに配属されて来た当初は、迂闊な事は出来ないと警戒し
た物だが。
今ではアギレラの鈍さに、ブラックもレインボーもすっかり安心し
きっている。
エレンが、どこか夢見るようなうっとりとした表情で、はあー、
とため息をついて首を傾げた。
逆側の肩に、ぱたぱたとはばたきを緩めながらレインボーが舞い降
りる。
「かーわいいなあー、アギレラは。何て言うの? しっかりしてて
賢いのに、どこか抜けてる所とかさ。本人は厳しい態度を取ってる
つもりなんだけど、結構ぽけーっとしてる所とかさ」
まーた始まったと言いたげに、使い魔達が顔を見合わせた。
「ねー、見た見た? アギレラったらさあ、お堅い格好と見せかけ
て、あーんなフリッフリのこっそりと着てるんだねえ。折角可愛い
んだから、恥ずかしがらずにもっと可愛い格好したっていいのにね
え。あー、ああいうところも可愛いっ、可愛い、可愛いっ」
「マスターキモイね」
「うん、キモイ」
使い魔がぼそっと呟く。
「アサからバンまでカーワイイーカワーイーって、マスターアブな
いヒトみたいよ」
「ってか、アブないヒトだよねー」
「五月蝿いなあ! こっそり言う位は、好きにさせてよ」
エレンが口を尖らせて、お前達にしか言えないじゃないかと寂し
そうに指を突き合わせた。
「ホンニンにもイってるじゃない。アサからバンまでスキスキスキ
スキとオオヤスウリでバーゲンセール」
「ねー。だからシンヨウしてもらえないのよ」
二匹の波状攻撃に返す言葉を失い、エレンがむうと唸った。
エレンは不貞腐れて、チェアの背面に体を沈めて、いじいじとチェ
アを人差し指でほじくった。
「いいじゃないか。それだって、もう少しの事なんだからさ。今だ
け楽しむ位さ、許してよ」
主人に向かってひどい奴らだよと、エレンが大げさに嘆いて、背
中を向けて項垂れた。
「ホントウに、マスター。アギレラちゃんをカエしちゃうの」
「帰すさ。あの子にだって事情が有るんだ」
使い魔達が、会話の糸口を掴んで身を乗り出すのに、エレンは振
り返りあっさりと否定。
「そんなの。マスターがちょちょっとテをカしたらカンタン」
「そうよそうよ。そしたら、アギレラちゃんはここに」
「それは絶対にやらない」
二匹を交互に見ながらエレンは、真顔になって宣言した。
そして正面を向いて、エレンは。
使い魔達に向けて噛んで含めるように、繰り返されたこの話題を終
わりにするべく強い語調で言い切った。
「潮時だよ。あの子はもう、ここに居てはいけない。あの子の為な
んだよ。わかるだろ? だから、お前達も金輪際、余計な事はしな
いように」
そこでエレンは、指を交互に組み合わせた上にあごを載せて、も
う一度ため息をついた。
馬鹿な事をしたものだ、後悔してるとエレンは呟いて、それきり沈
黙した。