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変身 5

 雪だ。

 うっすらと大地に積もる雪。
ところどころ、まだ緑や茶色が露出して見えているけれど、このま
ま降り積もったらほどなくして一面銀色の景色に変わるだろう。

 そこに暮らす人間にとっては、これは綺麗では済まされない残酷
な眺めだ。
食べ物にも事欠き、毎年凍死者が出る。
家畜のエサは不足して、人は家内に閉じ込められる。

 土地は痩せて、冬は長く、貧しさから抜けられないけれど。
私はこの土地を、私の領民を愛していた。
危険を内包した純白の光景さえも、懐かしく美しい。

 その中を私は、コート一枚の軽装でどこかに向かっていた。
もっと寒くなればなめした毛皮のマントを肩から被るが、秋の終わ
りの晴れ間も見られる今ならまだ、この格好で十分だ。

 どこに、向かっているのだろう。
点々と、薄く敷かれた雪道の中を私は、小さな足跡を残して。
本当に小さな足跡だ、どうしてこんなに小さいのだろうかとしばら
く考えて私は、ああそうだ、子供の頃の思い出だからだとすんなり
と納得する。
そう、今私は、あれを取りに向かっているのだ。
あれを、今日中に友達の家に届けてあげたい。
戦に出てしまっていて、彼の家には父親が居ないのだ。
親子だけでさぞかし心細い事だろう、だから私が代わりに行ってあ
げようと。

 その時遠くで。
獣の咆哮が、反響しながら聞こえてきた。
群れだろうか、山の裾野に広がって声が届くから、一体何頭居るの
か全く把握出来ない。
恐らくあの声は、狼か野犬のたぐいだろう。

 私は口を引き結んだ。

 まだ季節は秋だ、餌だって有る。
人里近いここまで近づいて来るとは思えない。
今年は豊作だったためか、人が襲われる事故も少なかった。
咆哮は遠い、大丈夫だ。

 私は先を急ごうと、泥だらけの小さな足を一歩踏み出した。
同じく泥だらけの、かじかんでカサカサになった手に息を吹きかけ
て、自分を叱咤する。





 がたんと音がして、反動で体が前のめりに揺れた。
顔を上げて私は、自分がプレートに乗っている現実に引き戻された。
左右に視線を走らせて、到着した時の振動だったのだと理解する。

(……夢、かしら……?)

 今自分が、寝ていたとは思えないけれど。
自分の事なのに、あやふやな言い方になっておかしいけれど、私は
起きていたのではないかと思う。
すうっと意識が飛んで私は、プレートに乗り込んだ後のわずかな時
間に、昔の出来事を『見て』いたようだ。

 首を傾げつつ私はプレートから降りた。
それからフロート乗り場を出て、職場に向けて歩き出した。

 やはり、夢、と言うよりは幻に近かったように思う。
不思議な感覚だ、過去を見ていたような。
けれど、私にはあんな情景に覚えは無いのだ。
だからやはり、夢だろうか。

 何とも妙な話だけれど。
サウィン祭が近づくごとに私は、自分の感覚が研ぎ澄まされていく
のを感じているのだ。
どう表現すればいいのか。
自分の中に有る、五感とは違う別の感覚器官が動いているみたいに
思う時があるのだ。
祭りが近づくごとに、空気が密度を増しているような違和感を覚え
て、あちこちに見えない何かが潜んで、私を伺っている様に感じて
振り返ってしまう。

(……変なの)

 帰郷が近づいて、ナーバスになっているのだろうか。
もう今週の終わりには、退職して実家に向けて発つ予定をしている。
それが気に掛かって、感覚が鋭敏になっているのだろうか。

 今朝も、故郷に手紙を出した。
父様お大事にと書き添えておいたけれど、難しいだろう。
兄様が戦死されて以来父様はがっくりと気落ちされて、しばしば塞
ぎこむようになった。
私がお側を離れてしまって、ずっと寂しがっておいでだった。
帰路の道程が長かったためと、勉強が忙しかったためとでなかなか
帰れなかったのも、それを助長してしまったのだろう。

 気持ちさえ明るくなれば、まだまだお若くていらっしゃるから、
父様も元気になられて長生きして下さるだろう。
けれど、人の気持ちという物はそうそう簡単に癒せる物では無い。
私が帰郷すると聞いて、大層喜んでおいでなのだそうだ。
少しでも、お役に立てるといいと思う。





 洟垂れマリーこと、愛妻家で清廉潔白な騎士、誉れ高き武人王の
アデルバート・マリエル・レムスW世陛下は、腕組みしたまま渋い
顔をして唸った。

「それが事実だとすれば、怪しからん話ですが。今すぐに対応する
のは難しいですね。春までは無闇に事を荒立てるような行動は取れ
ません」
「だろうね。でも急いで」

 同意を示しながらもエレンは、あっさりと要求する。
王は髭を撫で付けながら、お分かりでしょうに、と苦りきった声で
エレンに釈明を加えた。

「彼は公爵家の人間です。公爵家と事を構えるならば準備が必要で
す。背後に居るのは軍隊ですから、私とて簡単には動けませんよ。
内密の調査になりますから、お時間を頂かなくてはなるまい」
「善良な臣下が困っているんだよ」
「無理な物は無理です」
「弱気な事を。こんな時に動かずして、何が王だ」

 しょうがないな、と嘆息してエレンは、机の上で胡坐を掻いた。

「いいよもう、それで構わない。あの子は私が何とか抑えておくか
ら、君の思う様にやってくれればいい」
「畏まりました」

 エレンは頭が痛いと言いたげに口をへの字に歪めて、猛り狂った
赤毛のじゃじゃ馬を、どう誤魔化したものか考えを巡らせた。
それから彼は、手を裏返して王に向けて振った。

「マリーはそろそろ帰って。あの子が出勤して来る頃だから」
「用が有るからさっさと来いと人を呼びつけておきながら、随分な
おっしゃり様ですな」
「だって君の事を渋いわー格好いいわあーとか言うんだよ。目なん
てハート型にしちゃってさ。むかつくから顔を見せるな。もし外で
遭ったなら、幻滅されそうな振る舞いをするように」

 エリーの幼児並の手前勝手な言い分に苦笑しながら、王は腰を浮
かせかけた。
それからふと思い立った風に再び椅子に落ち着いてエレンに、二度
目ですねと語りかけた。

「あなたが私に頼みごとをされるのは。あれは四年前でしたか。あ
なたが、ここを作って欲しいと私におっしゃったのは。立派な物を
用意すると言う私に、大げさな事はしなくていいこの小屋をくれ、
適当な名前で適当な身分をくれともおっしゃって、私を驚かせた物
でした」
「そんなに驚く程の事でも無いよ。単なる気まぐれだから」
「……いえ、正確には、絡め手を含めたら三度目ですか。更に前に
あなたがどこかで、真に男女平等を謳うなら女性にも学院の門を開
いてやるべきだと、貴婦人方に巧妙に吹き込まれた事がありました
ね」
「良く知ってるな」
「これでも王ですから、弱気で申し訳無いですけれど。あの時はに
わか女性運動家になった婦人達に囲まれて閉口しましたよ」

 軽い嫌味交じりでそう言って、王が、がっしりした肩をすくめる。
エレンは紅茶を一口飲んで、澄ました顔で膝に転がったレインボー
の頭を撫でた。

「だってほら、遠慮深い私としては、直接頼むのは恥ずかしいし。
君じゃないと出来ない事だったからね」
「何をおっしゃいますか。あなたが望んで叶わない事の方が、現世
では少ないでしょうに」

 エレンは無言で、しかしじろりと不快げな視線だけを王に送った。
鋭い目線を軽く受け流して、王は続ける。

「あなたには、人に出来ない事が簡単に出来てしまわれるのに。そ
れでもあなたは、わざわざ手間を掛ける方を選ばれるのですね」
「放っておいてくれる? もう帰れって言ってるだろ」

 エレンがあからさまに表情を険しくして、横を向いて煩わしげに
手を振った。
王は怖い怖いと、そう思っているとはとても見受けられない軽い口
調で、今度こそ立ち上がった。

「隠居気分を味わうのには、まだお早いのではありませんか」

 エレンはそ知らぬ顔でお茶をすすって、王の言葉にあからさまに
無視を決め込んだ。
怯まずに王は、彼の方をくるりと向いて続ける。

「そろそろ、本来のご身分に立ち戻られてはいかがですか。少々お
遊びが過ぎるのではありませんか」
「……五月蝿い奴だ。お前は説教が趣味か」
「都合が悪いと五月蝿いで済ませないで下さい。あなただって、今
のままの暮らしがいいと思って無いでしょう。あなたには、重い責
任があるのではありませんか」

 エレンがため息を吐いて、しつこいと一言。
それからエレンは足を伸ばして床に降り、王の前に立つ。
行き場を失ったレインボーが宙に羽ばたいてエレンの肩に留まった。
エレンは彼よりも横にがっちりと逞しい、旧知の男を見下ろした。

「お前は事有るごとにそうして、私に何かを求める。人には向き不
向きが有るのだと、わからないか?」
「この上無く。あなたは何にでも向いておいでですが」
「私が嫌だと言っている以上は、不向きなんだよ。私はいつだって
無気力な無能者にしか過ぎない。分かったらもう、鬱陶しい説教は
お終いにしてくれ」
「しませんよ」

 王は彼独特の、他者を圧倒する支配者の風格と声色でもって、エ
エレンの正面に相対する。
目の前の相手に対しては効き目が無い事は百も承知だが、言うべき
場での長年の習慣だ。

「例えば。例の件であなたが動いてくだされば、我が国の当面の懸
念は簡単に解消するのです。以前より何度もお願いしているではあ
りませんか。でも、あなたは関わるのは御免だとおっしゃる」
「御免だね。私の知った事か。自分で何とかしろ」
「私では無理です」
「ならば何者にも無理だろう。王たる者が易々と人の力を頼もうと
するな、情けない」

 エレンはあっさりとそう言い放って、腰に手を当てて王を鼻でせ
せら笑った。
何度も繰り返されたやり取りに対する苛立ちを隠そうともせず、エ
レンは心底から忌々しげににらみつけて、腰を折って彼に顔を近づ
けた。

「何か有ると泣き言を言って私を頼る所は全く変わらないな。少し
は成長しろ、この洟垂れ坊主が。主が腰抜けでは、その聖剣もさぞ
や歯痒かろうよ」
「……随分なおっしゃりようですね」
「そう言われて悔しいならせいぜい精進するがいい。支配者様よと
ふんぞり返って担ぎ上げられておきながら、ちょっと躓くと降参し
て他力本願か。怠慢にも程が有る」

 口を真一文字に結んで、王は鼻で荒く息を繰り返した。
彼自身、人に干渉されたり、ここまでの言い様をされる事はほとん
ど無いのだから、忍耐には相当の努力を要した。
王はエレンに向けてぎょろりと目を見開きながら、感情を抑えるべ
く何度も逞しい胸を上下させて、沈黙した。
レインボーが気遣わしげに、ケンカシナイデ、ケンカ、ヤメテ、と
二人の間に挟まろうとした時だけ目を和らげて、彼をそっと掴んで
横に押しやり、王は再び挑戦を繰り返す。

「あなたが動くそれだけで多くの命が救われるというのに。一人の
娘の為にはそれが出来て、我々にはそうしないというのは、それこ
そが怠慢ではありませんか」
「私は気が向いた時に行動する、ただそれだけだ。お前達に対して、
義務など無いのだから放っておいてくれ」
「いいえ、義務です。あなたは持たざる者ではなく、与える者だ。
私欲で行動するなど、許されない」
「勝手に決めるな。私は私の好きにする」
「自由に行動出来るお立場ではありません。あなたはそう定められ
ておいでなのですから」

 王の一言に、エレンは心底不快そうに顔を顰め、鼻に皺を寄せた。

「ふざけるな。何が定め、何が立場だ。誰がそれを決める権利を持
つと言うのだ。神か? それとも他の何かか? だとしても、私が
頼んだわけじゃない。望んでこう生まれた訳じゃない!」

 エレンが激昂して声を荒げた。
びりっと空気の中に見えない力が走り、王はそれに押される様に、
鼻白んで一歩下がった。
例えば彼が本気で念じれば、自分の命など手の一振りであっけなく
奪われるだろう。
有り得ないと分かってはいても、彼と正面切って感情をぶつけあう
のは、勇気の要る行動だった。
王は前に進んで、負けじと声を張り上げた。

「私とて、望んで王に生まれたのではない。泣き虫でひ弱だった私
が、本当は生物学者になりたかった事をご存知だろうに。それでも
私は、投げ出さなかった」
「黙れ。人の身分などと一緒にするな」
「黙りません! 人は誰しも望まぬ役割を負うものだ。王族であろ
うと、市政の民であろうと、成すべき事を成さねばなりません。そ
れはあなた一人の苦悩では無い。あなたはいつまでご自身の役割か
ら目を逸らし、お逃げになるのだ!」
「いつ私が逃げた!」
「それをお聞きになりますか。身分を偽り、享楽的に過ごし、あな
たは総てから目を逸らしている。自分を哀れんで、一人で悲劇に酔
い痴れておいでだ。ただの我儘です、あなたは駄々をこねているだ
けでしょう!」

 かっとなってエレンが手を大きく振り上げる。
レインボーがマリーオコッチャイヤと金切り声を上げた。


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