(んまあ、豪華)
質素に見せかけているけれど、さすが陛下のお乗りあそばす馬車。
目立たない所に王家のご家紋が入っているし、内部は大層な豪華さ
で、この中で住んでもいいんじゃないのかと思えてしまう。
家紋がしっかり入っているのだから、やはりあの方は国王陛下でい
らっしゃるのだ。
近頃の国王は、そんなに暇なのだろうか。
(よほど、ご執心の女性がおいでなのかしら。……それは想像した
くないわね……)
それは置いておくとして、私は。
またもお茶でいたずらされては敵わないと、急ぎ足でエレン特別部
の扉をくぐった。
陛下の顔にお茶を掛けるとは、考えるだに恐ろしい話だ。
王族に対する不敬は万死に値するのだ。
今日まで命永らえただけでも不思議だ、私などはエレンの咎が自分
や一族に及ぶのでは無いかとまで思い慄いているのだ。
ドアをくぐった私の足にブラックがじゃれ付いて来た。
私が奥に行こうとすると、彼は妙な鳴き声をあげて、足の甲に乗っ
て爪を立てる。
困った、これでは動けない。
「おはようブラック。エサが欲しいなら今あげるわね」
私は彼の喉仏のあたりを指先で撫で上げて、それからブラックを
抱き上げた。
ブラックは短く一声鳴いて、今度は私のブラウスに爪を立てる。
何だろう、機嫌が悪いのだろうか。
それとも外に行きたいのだろうか。
もしかして発情……ごほん、何でもありません。
ブラックの脇に手を入れて持ち上げ、下から覗いて様子を見よう
とする。
と、私の耳が、ガラクタ部屋から漏れる言い争いの声を拾った。
扉が開いているのだろうか、割とはっきり聞こえる。
何か、強い調子で言葉を投げ合っているようすだ。
恐らく、陛下とエレン。
珍しくエレンが大声で、黙れと怒鳴っている。
(今度は……喧嘩!?)
ささーっと血の気が引く。
陛下相手に何たる事だ。
前回は寛大に見逃して頂けたようだが、さすがに今回はお許し下さ
らないかも知れない。
ここまでか。
我がアーヴァンホー家は領地没収、一族郎党流刑の目に遭うかもし
れない。
ダメ上司にかかわったばかりにご先祖様ごめんなさいと心の中で侘
びながら私は、そろりそろりと奥に入る。
ブラックが私の手の中で、ぶみゃあぶみゃあと、やけに切羽詰ま
った野太い声で鳴いた。
扉の奥から争う声が聞こえるせいなのか、部屋の空気が妙に尖って
圧迫感があるように感じられる。
何だろう、とても嫌な気分だ、ぴりぴりする。
扉が、開いている。
細いその隙間から、エレンの左半身と陛下のお姿が垣間見える。
エレンは腕しか見えないからわからないけれど、陛下のご尊顔は憤
怒で真っ赤に染まっておいでで、厳しいお顔で何かを叫んでいる。
(ああ、やっぱり)
エレンが何かとんでも無い無礼をしでかして怒らせてしまったの
だと、私は額に手を当ててがっくりと肩を落とした。
さらば我が平和な日々よ、さらば我が麗しき故郷よ。
これはもう、エレンとセットで他国への出奔を覚悟せねばなるまい。
「……ません! ……あなたは……し、お逃げになるのか!」
陛下が、張りの有る朗々とした声で、エレンを叱り付ける。
さすがは陛下、怒鳴り声にも支配者の風格がお有りになる。
……ん、おかしい。
エレンに対してどうして丁寧な言葉で対する必要が……。
私の頭の中を、至極当然の疑問がよぎるがその結論を出す前に。
口論が、急展開を告げたのだった。
「私に意見するな!」
エレンが叫んで手を振り上げて(陛下に向かって何と偉そうな口
の利き方だろうか、許しがたい!)
と、同時に、マスターオコッチャイヤと、どこかで聞いた様なきん
きん声のカタコトで誰かが叫んで。
私は見た。
エレンが手を振り下ろすと同時に、陛下のお姿がぐにゃりと曲が
って、まるでそこには初めから誰も居なかったかのように、ふっと
掻き消えるのを。
後から私が検証した所によると、陛下が曲がったのでは無いのだ。
実はその時エレンは、単純に手を振り下ろしただけだったし、陛下
は曲がりもせずに消えたのみだった。
私が、エレンが怒声を放った途端にガラクタ部屋から押し寄せた
熱い――感覚として熱く感じられる――風圧みたいな物を感じて。
その余りの圧力と濃度と熱さに、体が耐えかねて、一瞬視界がおか
しくなったのだ。
エレンの感情の爆発は、それは凄まじいものだった。
その煽りを私はもろに喰らってしまったようなのだ。
ぐらぐらとした感覚に、私は気持ちが悪くなって目を閉じた。
掬われるように私の体が後ろに傾いて、足が浮き上がる。
バランスを崩した体勢のまま、私は後ろにひっくり返りそうになっ
た。
何が起きたかわからないままブラックを胸に抱きしめる私の耳に、
ぱん、と、何かが破裂する音が刺さった。
ぐしゃりと、金属がよじれたその後千切れる、耳障りな高音も聞こ
えた。
後傾の状態のまま私は浮遊する感覚を覚えた。
目を開けたら応接室が、逆さの状態でものすごい速さで、遠ざかっ
て流れていく。
成す術も無いままに私は、強いうねりに体を回転させられながら、
ブラックと共に一気に吹き飛ばされた。
自分が短く、悲鳴を上げた様に思う。
何が起きたのか、まったくわからなかった。
まるでボールみたいにあっけなく私は、外に吹き飛ばされて扉を突
き破り、木に叩き付けられた。
……ドアを体で叩き破って外の木に激突したにしては、幸運にも
私は軽症で済んだかもしれない。
木の幹の、自分の背よりも上の辺りに腰からぶつかって、私は空に
跳ね、そのまま地面にどさりと落ちた。
背中を強打たせいで一瞬、苦しくて呼吸が出来なくなる。
しばらくじっとしていたら、段々と痺れが取れて来たので私は起
き上がり、手を地面に突いた。
「……たっ」
中指に鋭い痛みが走る。
私は泥まみれの手をおそるおそる開いて、握ろうとして顔を顰めた。
(腰が痛い……酷く打ったかもしれない。でも打撲程度かしら)
扉を突き破った時に背中を打って、木の幹に腰をしたたかに打ち
つけた、それは打撲で済んだみたいだ。
ただ、最後に体を庇おうと手を出したのがいけなかったようだ。
これだけ痛いなら恐らく、骨にひびが入っているだろうと思いなが
ら私は、その場に座ったまま上がった呼吸を整えた。
「アギレラッ」
エレンの慌てた声が、彼自身と共に飛び出して来た。
「大丈夫!?」
「何とか」
(ひどいのは中指くらいかしらね。これは突き指では無さそう)
私はやっとの事で一言だけ、しわがれた声をエレンに返した。
「指? ひびが入ったの、見せて!?」
エレンは私の手を取って、迷いの無い態度で、右手の中指を軽く
挟んで検分した。
私が顔を顰めると、ごめんねとエレンは項垂れた。
先ほどまでの激昂ぶりは治まって、すっかりいつものエレンに戻っ
ている。
長い睫を伏せて、エレンは俯いて私の他の指を開いたり閉じたりさ
せて、痛ましそうに顔をゆがめた。
ようやく頭が働き出して、この事態に私の脳が追いつき始めた。
私はされるがまま手を差し出しながら、いくつもの目の当たりにし
た情報と、疑問とを頭の中でめまぐるしく整理する。
そしてたった今起きた不可思議な出来事が信じられず、目を見開い
たままエレンをじっと見つめた。
もしも今私が気がついた事が事実であるなら、そうなら。
(信じられない事だわ)
エレンは私の視線を受けたまま、面を伏せたその姿勢で静かに、
うんそう、と小声で私の疑惑を肯定した。
エレンはそこに触れる前に、私の大きな懸念だった、消えてしまっ
た陛下の方に話を逸らした。
……恐らくは意図的に、本題を先送りにしたように思う。
「彼は大丈夫。私がかっとなって強制的に飛ばしちゃっただけで、
今頃は自室に戻ってるから安心して」
「……そう、ですか」
「君を、巻き込んでしまって申し訳ない。興奮しすぎたようだ」
エレンが私の腕の中の物を掴んで、そっと引きずり出した。
私が胸の中に庇っていた「ブラックだと思っていた物」をエレンが
二回突くと、それは瞬く間に変化して、見慣れた黒猫になってモゾ
モゾと動き出した。
「君も巻き込まれて、術が解けたみたいだね。ごめんね、ブラッ
ク」
ぽかぽかした、血肉を伴った本物の猫のブラックが私を見上げて、
エレンを見て、それからやけに人間臭い仕草で――戸惑いだと、私
は見て取った――交互に何度も見て、うむみゃあん、と、何とも微
妙な鳴き声を発した。
私の腕の中でいつのまにか、軽いフェルトの無機質なぬいぐるみに
変わっていた物は、たった今目の前で、生きた猫に変わったのだ。
私はぽかんとした間の抜けた表情でブラックを穴が開くほど凝視す
る。
(猫が、ぬいぐるみ? それともぬいぐるみが、猫?)
残ったほうの私の手を取ったままエレンが、ふわりと私の前で手
の平をかざす。
すると、ずきずきと疼いて、早くも痛みと熱を持ち始めていた中指
が急に軽くなって、したたかに打ってしびれていた腰が、全く痛く
無くなった。
「ここも、血が出てる」
エレンが私の顔の前、触れるか触れないかの所に指を近づけると、
ヒリヒリしていた額も何とも無くなった。
額に触れるとぬるりと指が横に滑る。
指を見ると血が付いていた、気が付かなかったけれど、どこかで激
しく擦ったのだろう。
けれど額そのものには、全く傷が無い。
驚きで目を見張る私に、エレンが困った様な表情を浮かべる。
私は心の中で、今のは何、どうして治っちゃうのと叫んでいた。
自身が体験したって、にわかには信じられない不思議な現象だ。
「治したから、もう痛く無いと思う」
「……ありがとうございます」
「ん、ブラックの事? うんそう、彼は元はぬいぐるみでね。私が
拾って魔法をかけてこうなった。傷を治したのも魔法だけど。君が
そこまで驚く程難しい技じゃないよ」
「そう、ですか」
私は曖昧に頷いて、エレンをこわごわと伺った。
人間を他に飛ばしたり、ぬいぐるみを生きた猫に変えたり、傷を一
瞬で癒したり。
そんな奇跡が起こせる人間が、この世に居ていいのだろうか。
続けてエレンが事も無げに、最後の、最も重大な私の疑問に、あ
っさりと答えをくれた。
「どうして中指だとわかったのかって? 君は、その答えをもう見
出しているだろう。君がいま、思っている通りだよ」
迷わず私の折れた中指を取ったエレン。
そればかりではなく、彼は、私が頭の中で言葉にせずに点滅させて
いた疑問にすらすらと答えた。
(人の心が、読めちゃうの!?)
私は本能的な畏怖を覚えて、咄嗟に、握られた手を思い切り引っ
込めてしまった。
エレンは何も言わず、小さく口の両端を上げただけだった。
「接触で読めるわけじゃないんだ。君は、とてもとても『声』が大
きくて。近くにいると自然と聞こえて来ちゃったり、遠くに居ても、
感情が昂ぶると聞こえて来ちゃったりするんだ。でも、誓って覗き
見はしてないよ。信じてもらえないかもしれないけれど、いつもは
なるべく聞かないように『閉じて』るから安心していい」
これは言い訳になるかもしれない、けれども、皆様にはご理解頂
けないだろうか。
普段通りの平和な朝に出勤しようと職場に入った瞬間に、得体の知
れない現象で外に吹き飛ばされて、私は大木にたたきつけられて怪
我をした。
心臓がまだ早鐘を打っていたその時の私は、平常心では無かったの
だ。
そこへ目の前で、考えられない様な不思議な技を次々と見せられて、
更には自分の頭の中が読まれていると分かれば、誰でも動揺すると
思うのだ。
そう自身を正当化するのは簡単だ、けれど私は。
その時エレンを振り払ったことを、すぐに後悔した。
「私も慌てていて、うっかり『閉じる』のを忘れてしまった。もう
閉じなおしたから大丈夫だよ」
エレンが差し出した手に、私はおずおずと捕まって立ち上がった。
砂埃で汚くなってしまったスカートを払いながら私はエレンの様子
を伺った。
柔らかい作り笑いを浮かべたエレンは、とても寂しそうに見えた。
朝陽を映しこんだヘーゼル色の瞳はいつも通り優しげだったし、優
美な卵型のかんばせは静かだったけれど。
その時のエレンは私よりもずっと大きいのに、どこか頼りなげで小
さく見えた。
「……普段から人の考えが読めるような異能は持ち合わせて無いし、
安心していい。私に悪意があれば、君が今まで無事だったはずが無
いだろう?」
エレンはどこか言い訳がましく、私を伺う様にそっと首を傾げた。
私は少し前の自分に対して、殴り倒したい程の怒りを覚える。
私の中に走った畏れと恐怖をエレンはきっと全部読み取ってしま
って、恐らく、とても傷ついたのだ。
そして彼の表情から窺い知するに、彼は私に、申し訳なく思ってい
るのだ。
「気持ち悪い思いをさせてしまってすまない。でも、もう少しだか
ら我慢してくれ。君は今週一杯で、退職するんだったね」
それも今まで言い忘れていてすまないねと、エレンは頭を掻いて
苦笑い。
「アギレラ。あのね木イテ。マスターはネ、マスターは」
かん高い声が、遠慮がちに下から聞こえて来る。
私は見下ろして、ブラックが私の足の甲に前足を乗せて、かりかり
引っかいて注意を引こうとしているのを認めた。
(……喋れるんだ……)
まるで子供の絵物語の世界だ。
黒猫が人語を話すだなんて、それだけで普通だったら衝撃だろうけ
れど。
今の私にとっては最後のおまけみたいな物だ。
私はすんなりとその事実を受け入れて、見下ろして彼の言葉に注目
しようとした。
エレンが体を屈めてブラックを抱き上げて、指をブラックの鼻に
当てて彼をやんわりと制した。
「お前もお腹が空いたろう、もう中に入ろう」
「オナカいいのなのヨ、ワタシわアギレラにッ」
「良くないだろ。お前は食いしんぼなんだから。ご飯にしよう」
エレンはそう言ってブラックの頭を一撫でして、背中を向けた。
そして何事も無かったかのように扉に入りかけて振り返った。
「出来たら、これは余りよそで言わないでもらえるかな」
私は黙って頷いた。
頼まれなくてもそうするつもりだった。
「勿論です」
「悪い事をしているわけじゃないけれど」
エレンはそこで言葉を切って、一瞬遠くを見るような目をする。
見えない物を見ているかのような、ガラスみたいに虚ろな、生気の
無い目。
「人は、異質な物には拒絶を示す生き物だから。明るみになったら
大騒ぎになってしまうだろう」
「言わないです、言わないけど」
慌てて私は彼を追いかける。
彼から少し離れた所に立って私は、扉の奥から覗いた室内の惨状に
目を見張った。
フックはひしゃげて床に転がり、カエル君は萎んで見る影も無い
有様になっていた。
歌う花は花弁がすべて千切れて、ツヤツヤだった茎は水分を失って
萎れて横たわっていた。
視線を走らせて私は、ことごとく破壊されているのは、魔道力の
籠められた用具だけであるのを見て取った。
それらはすべてへしゃげて、弾けて、萎んで。
生き生きと五月蝿く蠢いていた憎らしい彼らは、ばらばらに千切れ
た塊と成り果てて、静かに転がっていた。
私が外に飛ばされた時に私を送り出した耳障りな音は、魔道力の
籠められた用具達の哀れな断末魔だったようだ。
対照的に、他の家財道具は。
例えば食器棚など一番に被害を受けそうなのに、いつも通りそこに
収まっている。
「不安定なんだよね。サウィン祭が近づいているから」
エレンが肩越しに私を振り返ってそう言った。
「門が開いて、この世の物ならぬ存在や、力に溢れた者達が徘徊す
る時期だから。私も流れ込む異界の空気に影響を受けてしまうんだ。
だから力場が揺らぎ易い。それで君まで巻き込んでしまった」
「別に、構いません」
「こうなっても?」
エレンは顎をしゃくる。
無残な姿の彼らを身振りで示してエレンは、薄く笑った。
彼らしくない、見た事も無いような、冷酷な表情だった。
「こうはならないよ。人間は別だ。でも得体の知れない奴は、何を
仕出かすか分からなくて怖いでしょう」
「いえ、そんな事は」
私は頭を振って、何かを言おうとするが、それをエレンが遮る。
「拒絶とは、一種の防衛本能なのだよ。受け入れるよりも、弾いて
しまった方が楽だし、安心だろう」
エレンはブラックの背中を撫でて、どこか教師に似た厳格な口調
で私に続けた。
「覚えておくといい。我々魔道の人間はね。尊敬されているかもし
れないけれど、それは『畏れ』と紙一重だ。一度人の道を逸脱した
ら元には戻れない」
「……逸脱」
「そう、逸脱。……ああ言っておくけど、樫の木をシンボルに掲げ
ておきながら政治に明け暮れてる輩の事では無いよ。彼らは永遠に、
俗物でしか有り得ないからね」
見下したみたいな口調でエレンはそう評した。
「孤独を恐れないならば、ひたすら進むといい。力に溢れる君なら
ばもしかしたら、道を見出す事が出来るかもしれない。最後に、そ
の事を教えてあげられて良かったと思うよ。……実感としてね」
そう呟いてエレンは、身を翻した。
私は口を開こうとして、鼻から息を吸い込んで、それから何も言
えずに項垂れた。
一度相手に伝わってしまった物は、もうどうにも出来ない。
私が今ここで何を釈明しても、彼は私が気を遣って表面だけ取り繕
ったとしか、もう思わないだろう。
『拒絶する人々』
その中には、私も含まれているのだ。
そう、私が印象付けてしまったのだ。
私は扉が閉ざされるのを、自分への、エレンの拒絶だと感じた。