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戸を叩く音 1

 ノックノック、ノックノック!

 雪の夜には魔物が潜む。
彼らは夜な夜な人家を訪れ戸を叩き、甘言で惑わして子供を連れ去
るのだよ。
だから雪の夜には外に出てはいけない、決して。魔物に攫われてし
まうよ――

 生まれ故郷に伝わる、子供をかどわかし凍らせる、怖い雪の魔物
の物語。
大人たちは必ず、冬の炉辺で幼い子供に繰り返し語って聞かせる。
伸ばした手の先さえ霞むほどの猛烈な吹雪に見舞われる冬の辺境で
は、子供の気軽な外歩きは命取りになりかねない。
だからわかりやすい寓話を題材に取って、雪の恐ろしさを子供らに
教え込むのだ。

 私は御伽話を信じるほど小さくは無かったし、辺境に生きる同年
齢の子供らがすでにそうであるように、天候の変わり目を見極める
知恵と分別を持ち合わせていた。
周辺の地理を熟知していたから、獣が頻出する危険な場所に足を踏
み入れるほど愚かでも無かった。

 そして同じ年齢の子供らが持ち合わせてはいないだろう、強い責
任感と勇敢さを備えた少女だった。
でなければ、いくら季節は秋だからと言って、雪の降る夕暮れに一
人で原野に出ようとは考えなかっただろう。

 友人の母親は、戦に出ている夫の代わりに留守宅を預かっていた
疲れのためか、春から長いこと病を患っていた。
友人が、薬湯に使うハーブが手に入らないと心配しているのを小耳
に挟んだ私は、外遊びの途中で群生地を見かけた事を思い出した。
夕食までには帰るつもりで、こっそり抜け出して取りに出かけたの
だ。

(そうだ、思い出した)

 どうして今まで忘れていたのだろう。
私が初めて『彼』に出会った場所は、雪の原野だった。
十歳の秋、あの夜。曇天から唐突に降って来た背の高い人と、約束
をしたのでは無かったか。

 そう、そうだった。私は彼と約束――誓い――ゲッシュ――を交
わしたのだった。

〔証として、これをあげよう〕

 『彼』が近づいて来て、手を伸ばして……。

(どうしたのだった?)

 何を? 私は何を受け取った?

 跪いて私と目線を合わせ、ヘーゼルの瞳で覗き込んで『彼』は、
にっこりと微笑んだ。

〔勇敢な紅の姫君。その身一つでもって何を成し遂げるのか、君に
何が出来るのか。私に見せてくれる?〕

 賭けをしよう、と『彼』は持ちかけたのでは無かったか。
自分は代償を欲しいと思わないから、私にとってのみ有利な賭けを
しようと。
ただし、覚えていては面白くないから、と彼は言って。そして……。








 アギレラちゃん、ダイジャブ? ねえ、アギレラちゃん?
 シッかリして、オ木テ、オキテ。

 ひんやりとしたものが頬に押し付けられる。生暖かい息が顔を伝
い、ぬめるザラザラとした柔らかいものが鼻を撫で回した。

「やっぱり言葉が変。ダイジャブ、じゃなくて、大丈夫、でしょ
う」

 口を動かすと同時に感覚が鮮明になる。
手の中に握り締めた茨を模した装飾が、ひらの柔らかい部分に刺さ
って痛かった。
額は石のブロックに体重を掛けて押し付けていたようで、頭がずき
ずきする。

 気を抜いた瞬間に『奴ら』のうち一匹が突進して来て、猛烈な体
当たりをくらったのだ。
ぐらりとよろめいた所で、別の奴が寄って来た。
裂けた口を大きく開きケタケタ笑いながらそいつは、私の頭に半透
明な手を突っ込んでぐしゃぐしゃにかき回す真似をした。
途端に吐き気を催し、目の前が真っ暗になって立っていられなくな
った。
とっさにすがりついたのか、手近な柱に寄りかかったまま意識を手
放していたようだ。
朝の通勤で賑わった銀枝宮の大門前で、無様に倒れるような真似を
せずに済んだのは不幸中の幸いだ。

「ごキゲンいくばくカしら?」

 私の耳に口を寄せて、レインボーがひそひそと囁いた。

「この場合は、ゴキゲン、じゃなくてご気分、じゃないかしら。い
くばくはおかしいわ。いかがでいいと思うの」

 私はレインボーに教えてやった。
どうもこの使い魔達――ブラックとレインボー――の言葉遣いはお
かしいのだ。
何事も適当なエレンの事だから、今までまともな言語教育を施して
来なかったのだろう。
発覚して以来開き直ったのか堂々と話し掛けて来るようになったの
だが、舌足らずでイントネーションが滅茶苦茶な使い魔言葉を聞け
ば聞くほど、彼らの文法の間違いが気になって仕方が無い。
哀れを催して添削を施しているのだけれど、『猫と鸚鵡が人間語を
話すという事態を目の前にして、まず気になるのは文法なんだ?』
と何故かエレンが大笑い。
一体何がそんなにおかしいのか。
そして『やはり君は大物だね』という言葉が揶揄に聞こえてならな
いのだが、私の気のせいだろうか。

 大きく息を吐いて、私は門にもたれて周辺を見回した。
私が目にしている、不可思議な光景。
これらが明るみになるならば、現代の価値観のありようは良くも悪
くも一変するだろう。

 小高い丘に位置する銀枝宮からは、首都の様子を一望出来る。
宮殿の門から発する中央大通りは、丘のすそに平らに広がるターラ
を真っ直ぐに横断し、中心広場で枝状にわかれて郊外に伸びている。
数本の大通りの間を繋ぐ形で網状に道が作られているが、必ず広場、
そして宮殿に誘導されるように作られている。
すべての道は王に通ず、というわけだ。
防衛という観点で見れば、簡単に王宮にたどり着けるターラの構造
はいかがなものかと思うが、王家の権威を高める上では有効なのだ
ろう。

 中央広場にそびえるのが、最古の歴史的建造物であるグランパの
時計台。
時計台の尖った頂上にひじをかけて、一つ目の巨人があくびをして
いる。
フード付きのぼろをまとった奇妙な風体の老人は、腰を折り曲げた
姿勢でも雲が背中にかかるほど大きかった。
ターラの空に覆い被さるように丸まり、穏やかな笑みを皺だらけの
面に湛え俯いている。
初めて老人の存在に気がついた時、驚いたけれど恐怖心は無かった。
何故かいつも遊んでくれる近所のおじいちゃんに似た親しみを覚え
『懐かしい』と感じたのだ。

「ねえ。彼が『グランパ』なの?」

 両脇に控える使い魔達にささやくと、彼らの方から私の肩に飛び
乗ってぴたりとくっつき、小声の会話を容易にしてくれた。

「ソ。グランパ。ずっとアソコに立っ手ルのね」
「オジイチャンねー、年寄りだから大きイのね」
「怖くないから、ダイジョブ。イイヒトよ」

 ブラックとレインボーが交互に答える。
確かに、グランパは『精霊』の中でも『いい精霊』なのだろう。
一見した姿は恐ろしげだけれど、慈しむようにターラ市民を見守る
彼からは、悪意を感じない。

(……こいつらと比べてみると、実にわかりやすいわね)

 大気に漂う、透明のクラゲ状の生き物。陰鬱な役人の肩に乗って
何事かを囁いている目の釣りあがった小妖精。
一部の不穏分子のいけすかない顔付きと、漂う陰気なオーラと見比
べれば、いい精霊と悪い精霊が居るであろうことは一目瞭然だ。

 緑にも、大気にも、人の傍らにも、すべからく精霊は存在するの
だと古の先人たちは事実として知っていた。
神々が彼方に去った現代では、人の力が弱って来たから見られなく
なったのだ、しかし依然として彼らの一部は留まっていると神秘主
義者は主張していたが、これまでの私は精霊の存在そのものを疑っ
ていた。
精霊や妖精など、古代人のヒステリックな迷信が作り出した幻影に
しか過ぎないだろうと考えていたのだ。

「あなた達やエレンは、ずっとこんな世界を見ていたのね」
「ほんとワね、ヨウセイイッパイいるの。みんなミエないけどね」
「イマはね、サウィンサイが近いからもっといッぱい」

 地面にぽつぽつ穿たれた光る円から次々と噴出す小さな妖精達。
彼らは異界の何処かから、サークルを通じてやって来て、祭りが終
われば何処かに帰るのだそうだ。
普段からこの世界に居る精霊は、ヒトと密接なつながりを持つ存在
なのだと使い魔達が教えてくれた。

「今後の魔道原理の研究に役立ちそうだわ」
「コワくないの?」
「こんなフワフワしたもの、怖くもなんともないわよ。無視しちゃ
えば済む話でしょ。それより、得した気分」
「トク? ナンデドコガ? 不便なダけじゃない。アギレラチャン、
イジワルばっかりされてこまってるジャナイ」
「そりゃ、朝晩構わず茶々を入れられて、迷惑は被っているけれど
……ものごとはね、考え方なのよ。マイナスばかり見ていては損を
するわ」

 魔道力と精霊。相互に関わりがあるのは確かなのだろう。
だから、彼らを認識出来る様になったことは、研究者である私にと
っては有利であると言えよう。
この能力を降って沸いた幸運と言わずしてなんと言おうか。

「例えば、彼らを呪で使役出来るならいい労働力になる。水の精霊
の様子から海の機嫌を読み取る方法が見つかったなら、船乗りには
売れるでしょうね。成功すれば大儲けよっ。多少の弊害なんて問題
にならないわ」
「……アギレラチャンってほンと」
「たクまし……ソンケー……」
「そう?」

 一目散に向かって来る、凶悪な顔構えの小妖精を無造作に叩き落
としながら、私は門に向かって歩き出した。
ぐずぐずしていたら遅刻をしてしまう。
今日を含めてあと三日で私のフィーリ勤務は終わるのだが、退職間
近だから気が緩んでいるとは思われたくない。
無遅刻無欠勤の記録は最後まで守りたい所だ。

 『ヨコセ! オマエ、ヨコセ!』と叫んでいたようだが、何を寄
越せと言うのだろうか。
隙を見せれば向かってくる危険な手合いはみな、はっきりと私を狙
っているようなのだ。
口を揃えてヨコセヨコセと言うのだから、彼らが求める『餌』のよ
うなものを私が持っていて、それが彼らを引き寄せているのは確か
だろう。

(何を、欲しがっているのだろう)

 私は両肩におさまった二匹をうかがって、恐らくは答えてくれな
いだろうと、沸いた疑問を飲み込んだ。
彼らは私の『味方』だが、主人を持つ使い魔なのだ。
何度詰問されようが権限を持たない事柄に関して語ることは出来な
いのだと、ここ数日の経験で知っていた。

 それでも、突然不思議の世界を見るようになってしまった私を心
配してか、ぴったりと付き従って世話を焼いてくれるのは有難かっ
た。
それだけでも良しとするべきだろう。

 無理に語らせようとは思わない。
観察し、有益な材料を集め、思索し確証の高い推論を組み立てる。
学究の徒たる私の得意とする所だ。
答えには自分でたどり着けばいいのだ。

(例えば、ここにも一つの材料があるわね)

 銀枝宮の門をくぐってから、私は振返って仰いだ。
宮殿を守るようにぐるりと囲む、人の目には映らない不思議な帳。
外壁に沿って空に張られた線から、銀色の枝が縦横無尽に張り巡ら
されて地面まで降りている。
銀の枝は、宮殿を守るようにすっぽりくるんでいる。

 建国神話によると、賢者グレンノールは彼の良き友であった開祖、
建国王パトラズに敬意を表し、王家への永きに渡る守護を約束した
そうだ。
『銀色の枝』がこの地を守るであろう、我が結界ある限り、いかな
る悪意にも屈しないであろうと宣言したのだそうな。
銀枝宮の名の由来は、この逸話によるのだ。

 王家のカリスマ性を高めるために捏造された胡散臭い眉唾話だと
受け止めていたが、今はそう思わない。
たった一歩でも内側に入ると感じられる、強力な守護の力。
枝状に絡み合った銀色の結界が悪意の精霊をすべて遮断してくれる
お陰で、銀枝宮の中に居る限り、今の私も快適に過ごせるのだ。
史実を信じるならばグレンノールは実在の人物で、これだけの広大
な敷地に、強い結界を張れるほどの偉大な魔法使いだった事になる。

 ところでこれは、魔道アイテムによって作られたのだろうか、そ
れとも賢者自身の力でもって張られた結界なのだろうか。
後者であるならば、没年が不祥とされるグレンノールは今もどこか
で生きている可能性があると思うのだ。
何故なら、魔道力は術者が生きていればこそ行使される力だからだ。
文様の刻まれた魔道アイテムならその限りでは無い、設置さえして
おけば、術者が居なかろうとエネルギーが尽きるまで動いてくれる
だろう。
しかし基礎魔道力理論の権威であるキャボット博士の『デモクリフ
ァーの公式』を使ってざっと換算してみたが、正面広場五個分に匹
敵するほどの巨大なシステムで無ければ、このクラスの結界を維持
するのは不可能だ。
システムが見当たらないのだから、グレンノールは今も生きていて、
彼の魔道力でもって結界は保たれていると考えるのが自然だろう。
私の推測が正しいならば、歴史学における世紀の大発見だ。

 他にもいくつか立ててみた、興味深い推測や仮説があるのだけれ
ど……。

「アギレラチャン、チコクしちゃうよ!」
「ジカンジカン!」

 いけないいけない。入り口でのんびりしていたために、時間が無
くなりつつある。
突然精霊が見えるようになったことは、確かに驚きだった。
だがしかし、給料を貰っている人間にとって、出勤時間以上に大切
なものがあるだろうか。いやない。
遅刻の恐怖に比べれば、変な生き物が私に群がってくる現状など些
細な問題だ。
検討はまたの機会に譲るとして、今は先を急がなくては。





「お早うございます、ヴァテス」
「お早うアギレラ。今日も美しいね赤毛さん」
「それはありがとうございます」

 お約束の受け答えをしながら私は、ケープを脱いで手近な椅子の
背にかけた。
エレンお手製の魔法のフックはすべて壊れてしまったので、上着を
かける場所が無くなってしまったのだ。
うっとうしいとばかり思っていた猿のフックも、いざ無くなってみ
ると不便だ。
庶務課に申請して備品のフックを回してもらい、取り付けておかな
くてはなるまい。
退職までに忘れずにやること。
私は脳内に刻み付けつつ、朝のお茶を淹れるためにやかんを火にか
けた。

 エレンはガラクタ部屋の本棚の前に立って、指先で背表紙を辿り、
本を選んでいる風だった。
それから指を隙間に入れて一冊を引き出し、机の角に腰掛け、書物
を開いて熱心に目を通し始めた。

「……なあに? どうかした?」

 まじまじと凝視する視線に顔を上げて、エレンが不思議そうに小
首を傾げる。

「いえ、何でもありません。失礼しました」

 私はやかんの取っ手にふきんを掛けて、ポット――もちろん、暴
れ出さないまともなポットだ――に熱湯を注ぎ、ティーコゼを被せ
た。

 エレンがおかしい。
朝っぱらから地べたを這いずって埃を立てる事も無く、妙な発明に
夢中になり、爆発させ散らかして私を怒らせる事も無い、いそいそ
と寄って来て暑苦しいコミュニケーションに及ぶ事も無い。
朝から部長のするべき仕事に精を出し、きちんと机の前に座り、会
議にもおとなしく行ってくれる。

 ――つまり、エレンの行動が『まとも』なのだ。

 まともだからおかしいと言うのも妙な話だが、普段の言動がおか
しい上司がまともに振舞っているのだから、それはつまりおかしい
ということなのだ。
 お陰で、エレンに邪魔されずに雑事に専念出来るので助かってい
る。
特別部に配属されて二年、ダメ上司の矯正を至上の目的として来た
のだから、悲願が実って喜ぶべきなのだろうが……。

 あくびを一つ噛み殺して、カップに香りのいい花茶を注ぐ。
薄ら呆けた上司が少しでもきりりとしてくれるようにとの儚い願い
を籠めて、日々脳をすっきりさせる作用を持つハーブ――ローズマ
リーやミント、セージを混ぜ込んで出していたものだが、今なら嗜
好のみを目的としたブレンドを愉しんでもいいだろう。いそいそ。

「今日の予定は、背後のボードに」
「うん、見ておいた。どうもありがとう」

 実に素晴らしい!

 『めんどくさいから消しちゃったー』とも『私を過労死させるつ
もり? オニだオニっ』とも『今日は愛と哀しみのレテを読破した
いから、どこにも行かないのー』とも言わない。
申し送りで揉めて朝の大事な時間を浪費するのが日常茶飯事だった
のだが、ガミガミ叱らなくていいのだから楽である。ビバまっとう
で平穏な勤務だ。
こんなささやかな事で喜ぶ自分のいじましさがどことなく哀れだが、
最後のプレゼントだと思って堪能しなければ。

 「いい香り」

 エレンは立ち上る蒸気をうっとりとたしなんでから、優雅な手つ
きでカップを傾ける。
何となく手持ち無沙汰だった私は、縦にした盆を小脇に抱え、傍ら
に立ち尽くしていた。

「ぼーっとして、どうしたの」

 エレンがの訝しげな声に、我に返る。
いけないいけない。余りにも円滑に物事が進むものだから、調子が
狂って困る。

「変なアギレラ。君がぼんやりしてるだなんて珍しいね」
「申し訳ありません」
「怒っているんじゃないよ。引越しの準備もあるだろうし、疲れて
いるのだろう?」

 にっこりとしてからエレンが、私を見上げた。

「例の研究のことなんだけど」
「はい」

 七三バーンハードのつるっぱげ野郎……いや、可能性豊かではあ
るものの、まだ禿げてはいないが……にこそこそと泥棒猫のごとく
ちょろまかされ……もとい、盗用されたあれの事だろう。
恐らく彼は、上層部の意向に従い、いそいそと盗作計画に乗ってい
るだけであろうと予想される。
人のフンドシを借りて嬉しげに出世しようとは、男の風上にも置け
ない卑怯者である。
いつもいつも、運や七光りに照らされて美味しい所を頂くバーン
ハード。
プライドは無いのだろうか。全く腹が立つ。

(今度とっつかまえたら、素っ裸にひん剥いてグランパに晒してく
れようか。お婿に行けない大恥をかかせてやり、お尻を引っぱたい
てヒーヒー泣かしてくれるわっ)

 バーンハードのクソッタレめっ。

 ……ごほん、あらいけない。今のはお忘れ下さいますように。
 レディにあるまじきお下品な言葉を使ってしまって、お耳汚しを
いたしました。
怒り覚めやらぬ現状なので、姫君らしからぬものいいをしてしまっ
たことは、大目に見て頂けたらと思うのです。

「君は、どうしたい?」
「抗議文を、査問機関を通じて提出する予定をしています。最終的
には、裁判も辞さない覚悟です」

 エレンは指を交互に組み合わせた上にあごを載せて、難しいよね、
と呟いた。

「私の方からも上に問い合わせを出しているけれど、調査に時間が
かかるみたいなんだ。一日二日で結果が出る問題じゃ無いと思う」

 エレンに言われるまでも無く、長丁場になるだろう事はわかって
いる。
張本人の私がターラを離れてしまえば、なあなあで誤魔化され続け
る可能性もあるだろう。
春にまた、戻って来る必要があるかもしれない。

「時間はどれだけかかってもいいですから、事実を究明していただ
きたいです」
「うん、君の気持ちは良くわかるよ。私も、出来ることは惜しまな
いつもりでいるからね」

 エレンは載せたあごをユラユラ揺らしながら、しばらく思案に沈
んでいるようだった。

「論文の原本は、まだ持ってる?」
「はい。写しを提出しましたので、原本は自宅にあります」
「では、私が預かっておこう。冬の間に調査が進むなら必要になる
だろうし。私が代行出来るなら、君にも都合がいいでしょう」
「助かります。何から何まで、ありがとうございます」

 私は、明日原本を持参する、と頭にしかと刻み付けた。
記憶頼みだけでは心もとない。明日と明後日にやっておきたい雑用
の覚書を作っておいた方がいいだろう。
自分の机に戻ったら、早速取り掛かろう。

「でもね、アギレラ」

 エレンが物憂げに頭を振って、腕を胸の前で組み合わせた。

「ピアズレー家は代々続く名家だし、後ろ盾は武器戦略研究所だ。
証拠が揃っていたとしても、状況は厳しいね。それに、公に文書を
したためるのは賢い方法じゃない。相手が相手だけにね」
「承知しています」

 私は背筋を伸ばして、頷いて見せた。それでもやらねばならない。
富めるものが手柄を平気で横取りするような悪しき慣習がまかり通
っては、研究者にとって安心出来る国では無くなってしまうだろう。
 エレンは私をちらりと一瞥してから、言いづらそうに口を開いた。

「うん、言いたい事はわかるよ。君が自分の手柄のみにこだわって
いるんじゃなくて、義憤にかられているのだと良くわかってる。で
もね、軍隊が絡むと危ないと思うんだ。それでね、アギレラ」
「はい」
「仮に、相手が代替案というか、何らかの懐柔策を持ちかけて来た
としたらどうする? 内密に対応するならば、権利を主張したとし
ても、穏便に認めてもらえると思うのだけど」

 しばしの沈黙。反芻して彼の言葉の意味する所を察し、私は眉を
ぴくりと引きつらせた。

「水面下で取引しろとおっしゃるのですか。いくらかの金銭と引き
換えに納得しろと。それではまるで、脅迫ではありませんか」


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