俺は絶句した。
まさかそう来るとは思わなかったから。
煙に巻いて誤魔化すのは得意技なんだけど、その時は咄嗟に言い逃
れが出来ずに詰まってしまった。
ぜったいに言えない。
滝沢あかりが苦手だった、っていうか更にいうと。
どちらかというと嫌いだったなんて――。
加納俊哉は、目の前で繰り広げられる光景にげんなりとして、会
場の居酒屋にそっと視線を走らせた。
どこか、逃げ込める隅っこは無いかなあ。
やけにはしゃいだ一年生の面子が、イッキイッキとお決まりの口
上を唱えてがぶがぶサワーをあおっている。
一気に飲むことで何をアピールしたいのか。
それで盛り上がるのはどうしてなのか。
――俺には全く付いて行けない。
加納は誰の目にも留まらなさそうな階段の下にあたる場所を発見
して、そこに潜り込んだ。
飲みたくも無い不味い酒を飲んで倒れるのは御免だからだ。
面倒だけどわざわざ来たのは付き合いと言う奴で、仕方なくだ。
新学期早々仲良くなった鎌田と小山に合わせて来ているだけにしか
過ぎない。
最低限の義理は果たしたのだから、後は隅で静かに過ごして、コン
パが終わるのを待とうと加納は決めていた。
「うわーっ、こいつ吐いた!」
誰かの叫び声がする。
言わんこっちゃない、すきっ腹に酒を流し込めば普通は吐くだろう、
当たり前のことだ。
「どうするよ、マジどうするよ!」
(どうもこうも、トイレ行けよ)
加納は程よい眠気を覚えて、膝を抱えて壁に寄りかかった。
シーズン一年生交流コンパが終わるまで、ここで寝ているつもりだ
った。
「トイレ行こう、ねっ?」
わーわー叫ぶ野太い声に混じって、かん高い良く通る声がする。
聞き覚えのある声だ、サークルでいつも騒いで目立っている女子グ
ループの中の一人だと記憶している。
この間の練習では、負けた方が勝った方にコーヒーを奢るのだと
決めたらしく、キャーキャー大騒ぎして試合をしていた賑やかな文
学部の女の子達。
そのグループの中で特に悪目立ちしていた元気な女の子だ、確かあ
かりと呼ばれていた。
覚えやすい名前だったから、耳に残っている。
「わっ、吐いたっ」
「わり、まじごめん……」
手に嘔吐されたその子は、いいよいいよと笑って、おしぼりで拭
ってからぐったりした同級生に肩を貸した。
(ふーん、いい子ではあるみたい?)
加納はそれをぼんやりと観察してから、今度こそ目を閉じた。
悪いけど、ハイテンションな子は苦手なのだ。
自分が低温人間だからか、相手がハイテンション過ぎると疲れて口
を開くのも面倒になる。
その子は、加納にとっては最も苦手なタイプだった。
声は大きいし、見るからにガサツそうだし、居るだけで鬱陶しそう
だから近くに寄りたくない感じ。
露骨に顔には出さないけれど、実は人の好き嫌いが激しい加納は、
こいつ嫌だと思ったら二度と自分からは近寄らない。
だからこの先も、きっと卒業まで、当たらず触らずの友好関係で終
わるであろうと予想される相手だった。
喉の奥で、ゼロゼロと妙な音がする。
大きく息を吸ってから吐くと、ゼッと引っかかる音がして、ひゅー
と胸の奥が鳴った。
大学に入学して一人暮らしをはじめて、不摂生を重ねたせいか、
体調が思わしくないようだ。
母親がそれを心配して遠くにやりたがらなかったのを、もう大きく
なって健康なんだと押し切ったのは自分だから、きちんと自己管理
をするべきだったのに。
入学してからの特殊な狂騒状態に巻き込まれて、ついついはしゃぎ
すぎてしまった。
衆人環視の中で加納は、どう断ったものかと言葉を探した。
「加納君って、こんな特技持ってたんだ」
「俊は歌うめえんだよ」
「もう一曲歌って!」
「平井堅歌える?」
(しまった)
鎌田後で覚えてろ、と思うものの、もう遅い。
まさか自分に注目が集まってマイクが回って来るだなんて思って
もみなかった、困った。
カラオケボックスの面々をざっと見回す。
期待に満ちて見つめる顔、顔、顔。
(喉の調子悪いんだけど……)
これだけの人数が盛り上がってる場で気儘に振舞うのは、さすが
に憚られる。
目立って何かをするのもだるいけど、これも付き合いだと思ってお
愛想するしか無いだろう。
諦めてマイクを手に歌本をめくる。
曲目を絞りながらリモコンを探していたその時だった。
「はいはいっ! 次は滝沢歌います!」
横に座った滝沢あかりが唐突にすっくと立ち上がった。
(なに、とつぜん……?)
そこで滝沢あかりは、あ、マイク、と小声で呟いて、自分に向け
て体を捻って屈んだ。
受け取りながら滝沢あかりは、じっと気遣わしげに覗き込んで、
それから自分に向けて破顔した。
無意識の仕草なのか、触れ合った手をぎゅっと握る。
ぽよぽよしていて、暖かくて汗ばんでいた。
赤ちゃんみたいな柔らかい手だな、と思った。
その次の瞬間には、あかりは背中を向けて元気良く跳ね上がって、
同じ手を振り上げて一同に向けて横に揺らしていた。
ふわんと、シャンプーの匂いがした。
かしましい生き物としか思っていなかった『滝沢あかり』を、初
めて一人の女の子として意識したのは、この時だった。
(どこが似てるんだ)
超可愛いーあかりちゃんにそっくりー、と俊哉は褒めているつも
りらしいけど、失礼しちゃうわよねえっ!?
皺の寄った茶色い横広がりの顔、ぺったんこの上向きの鼻。
認めたくないけど微妙に似てるんだよ、しかし似てるだけに一層腹
が立つわよね。
加納俊哉め、実に無礼千万である。
コーチのバイト帰りの私は、着替えとラケットバッグを小脇に抱
えていて、更にここに来る途中に寄ったスーパーの袋で両手が塞が
っていた。
袋の中の卵を割らないように私は注意深く床に置いて、玄関の鍵を
開けた。
入ってすぐのキッチン兼通路の向こうに引き戸、その少しだけ開い
た隙間から、横向きに枕に載った俊哉の後頭部が見えた。
寝てるのかしら?
「おおーい、かのうくー」
……いやいや、寝ているの? と聞くのは不親切よね。
私は声を潜め、足音を抑え気味にして部屋に上がった。
卒論の追い込みと研究発表と冬期講習のバイトのトリプルパンチ
で徹夜続きだったらしい俊哉が、久々に熱を出して寝込んでいるの
だ。
気管支が弱い俊哉は、一冬に一回は高熱を出してしまうのよね。
私が軟弱者じゃのうとせせら笑うと、絵里に、冬に一回寝込むなん
て普通でしょうあんたがゴリラ並みなのよと突っ込まれた。
そりゃ私は二年に一回鼻風邪を引いたらいい方なんだけどさ。
ゴリラだって風邪くらい引くわよ、ああ見えてデリケートで綺麗好
きなゴリラちゃんに失礼よ。
……ん、おかしいな、どこで間違えて誰を下げてるのだ私は。
そろそろと近づくと、壁を向いて寝ているはずの俊哉が、ぐるん
と首を回して私を向いた。
(ひっ!)
起きてるなら玄関で声を掛けてよ、どっきりして飛び上がったじ
ゃないのよ。
気配の無い奴は言葉で存在をアピールしてくれないと困るのよ、目
を見開いたまま黙ってこっちを向かないでよね。
「おはよー……あー、もう夜だからおそよう?」
目をしょぼしょぼさせながら俊哉は起き上がって、枕元の眼鏡を
手探りで探してかけた。
昨日から丸一日寝たらしい俊哉の側頭部にぺたんこの寝癖発見、ぷ
ぷぷー。
「寝てなくていいの?」
「沢山寝たから、もう眠くないよー」
すっきりした顔色で軽く伸びをする俊哉に、私はスーパーの袋か
ら、いちごブリックを出して渡した。
ストローを挿してちゅーちゅー飲みながら袋を覗きこんで、俊哉は
何かを探してるみたいだ。
「腹減った?」
「お腹は空いたけど……それより……歯ブラシは?」
「歯ブラシ? あ、ごめん」
そういやメールで再三、くれぐれも歯ブラシを持って来るように
と言われていたわね、忘れてたわ。
俊哉が嫌そうに顔を歪めて、買って来いって言ったのに……と、恨
めしげに呟いた。
「忘れちゃったものはしょうがないでしょ」
「コンビニで買って来なさい」
「やだよー、寒いもん」
「やじゃないでしょー。また俺の歯ブラシ使う気? ほんっとにほ
んっとにやめて」
このあいだ歯ブラシを忘れた時に、こっそり借りたらばれて怒ら
れたのよね。
いいじゃないのよねえ、歯ブラシくらい減るもんじゃなし、ちょっ
と毛が開く程度なんだからケチケチするなってのよ。
ちゅーが出来るなら歯ブラシだって貸せるはずだと言ったら、全然
問題が違うって言うのよ、変わらないわよね、細かい奴ねえ。
「んじゃ、磨かないからいいよ」
「磨かな……」
「一回磨かないくらいへーきへーき」
俊哉が絶句する。
それから、昔風に言うならエンガチョとフキダシを付けたくなるよ
うな汚らわしそうな顔で私を横目で見てから、深いため息を吐いた。
いかん眉間にたてじわ二本発見、このままだとお説教コースだわ。
「あかりちゃんあのね。口にはね、ばい菌が沢山」
「ああーら加納君ったらお熱はどうですかしらっ?」
私は手をわきわきさせて、額にぴたっと当ててみる。
……ち、残念、平熱になってるじゃないのよ。
俊哉がごまかされねえぞと言いたげに私を見てから、何かに気がつ
いたのかじーっと手の平を凝視。
「あかりちゃん、手洗って無いでしょ」
「うん。何でわかった」
「泥だらけ。ついでに言うと顔も洗って無いでしょ」
あらやだわ。
レッスンしたその足で来たものだから、コートの砂埃で手も顔も真
っ黒じゃないの。
俊哉が情け無さそうにへの字眉になって、あのね、あかりちゃん女
の子なんだからもうちょっとね清潔にね、とお決まりの枕詞を口に
する。
「それと、今の時期くらい手洗いうがいしよう?」
「うるさいなあー、私の顔なんて誰も見ないわよ」
まったくもー、人間ちっさいちっさい!
俊哉みたいな神経質な奴が、無菌生活のしすぎで風邪引くのよ。
ばい菌なんかどこにでも居るでしょ、気にしすぎよね。
自慢じゃないけどあかりさん、そんじゃそこらの病気なんて跳ね返
しちゃうわよ、きっと耐性が出来てるからだと思うのよ。
あかり流ワイルドライフ万歳よ、人間よ逞しく原始に帰れよ。
「あんたは細かすぎっ」
「原始に帰れって……」
私がふんぞりかえって逆に説教してやると、俊哉が再び絶句。
お願い現代人に進化して下さいと呟いて、ため息を再び吐いて、小
言じじいは布団からごそごそ這い出した。
いやあねえ、ため息の数だけ幸せが逃げるのに知らないのかしらね。
でもちょっと納得行かないわよと思いながら、ベッドの縁に腰掛
ける俊哉の横に私も並んだ。
だってさ、私にだって言い分があるのよ。
昨日から寝込んで起きられないって言うから、お腹空かしてたら可
哀想だと思って飛んで来てやったのよ。
スコートのまんまで下にジャージ履いて大顰蹙買ったけどさ、ダッ
シュで来てやったのよ。
いやスコート×ジャージは寒い日に良くやるので急いでるのとは関
係無いけどさ。
でも、いくらあかりさんだっていつもは手洗うしさ、顔だって洗う
わよ。
そこまで不潔だと思われるのは、さすがに悔しいのである。
(いいけどさ、ふん)
私は横からもう一度俊哉の額に手を当てて、完全に熱が下がって
るのを確認してちょっと安心する。
それからすぐに引っ込めて、さっさと消毒しやがれちきしょうめと
じりじり遠ざかってやると、俊哉がくすりと笑って、あかりちゃん
いじけてると私を指した。
「お前が人をばい菌みたいに言うからだ」
「女の子なんだから外ではちゃんとしなさいって言ってるだけ。駄
目な子なんだなと思われたら、俺が悲しいの」
ね? と念を押す俊哉。
年々小言じじいっぷりがエスカレートしていると思うのは私の気の
せいだろうか。
ぶるぶる恐ろしい。
それから俊哉が、あかりちゃん久しぶりー、と私を掴まえてぎゅ
うっとするので、私は念のため、汗臭いばい菌ですがよかですかと
確認を取ってみた。
だってシャワーも浴びてないし、手も洗ってないしさ、後で病気持
って来たなと文句言われたら困るじゃないの。
すると俊哉が頭に鼻をつけて、ふふーと笑った。
「ほんとだ、あかり汗くさい」
「なら嗅ぐな、卒倒するぞ」
「しないよーあかりの匂い好きだしー」
全然褒めてないわよね。
乙女をつかまえて汗臭いとはなにごとかと思うのよ。
でも確かに。
自慢じゃ無いけど相当汗臭いわよ私は。
テニスのレッスンをして来たし、その後ここまで走って来たから、
掻きたてホヤホヤのフレッシュなムンムンのプンプンよ。
それを嬉しげに喜ぶとは。
(フェチだマニアだ、気持ち悪っ)
「体臭フェチめ」
「違うよー俺はあかりちゃんの、匂いフェチ」
「どっちでも一緒だよ」
「ぜんぜんちがうよー」
日焼けした髪の、おひさまの匂いと、汗と、肌がかぶれ易いからと近頃
愛用しているオレンジシャンプーの匂いとが混じった、あかりの子
供みたいな甘酸っぱい匂い。
(あくまでそれ限定なんだけど)
他の人だったら気持ちが悪いよね、吐いちゃうかも。
「とりあえず、元気になったみたいだから良かったけど」
「うん、ありがと」
あかりがぶっきらぼうに言って、口まで元気になりやがってとブ
チブチぼやいた。
死にそうな声で電話して来ないでよ紛らわしいとあかり。
大きな荷物を抱えて、髪の毛までびっしょり濡れて頭皮が透けち
ゃうほど汗を掻いて、自分のために全速力で走って来てくれる。
しばしば、無意識なのかぽよぽよした手で自分にぎゅっと、気遣わ
しげにつかまって来る。
口は悪いけど、本質はとても優しいあかり。
余り女らしく無くて、どこか風変わりだけど、人に好かれる暖かい
あかり。
ちょこちょこしていて甘えん坊で、実は怖がりの可愛いあかり。
やっぱりあかりは、特別にさ……。
(ETそっくりだよね?)
かなり似てると思うんだよね。
日焼け止めをきちんと塗らないあかりは冬でも健康的に真っ黒に
焼けている。
薄くてこしの無い毛は痛み易いようで、ショートボブは日に焼けて
色あせ、頭に沿ってぺたりと張り付いている。
毎日ブローするのが面倒だと、額を出して前髪をピン留めでまとめ
るのがあかりの定番スタイルだ。
でこっぱちで黒目がちの目をぎょろぎょろさせる所はETそのものだ
と加納は思うけれど、あかりは似てないと言い張っている。
ついでに言うと驚くとにょきっと首を伸ばしてギーギーいう所とか、
いつもウロウロしている所もそっくりだと思う。
(可愛いんだけどな、ET。何が嫌なんだろ)
俺の趣味がおかしいのかな。
途端に俊哉が冷たく言い放つ。
あんたは私のお母さんか、五月蝿いなあーもうー。
ケーキ禁止と言われてはしょうがない。
買いに行こうとお尻を浮かしかける私の後ろで、俊哉も立ち上がっ
て、窓際に置いた鍵を取って私に向けて振って見せた。
「俺もアイス食べたいし、シャンパンも無いよ。車でいこ?」
うんうん、そうしよう、アイスも買おう!
シャンパンも買おう! いいねいいね!
こくこく頷きながら颯爽と立ち上がって、私は俊哉の手を握った。
そしたら加納俊哉のやつめ。
くすっと笑って、これが首輪でね、と鍵を横に揺らして。
「お散歩行きますよーシッポ振ってワンワンって感じ?」
ですと。
失礼しちゃうわ!