それに、ここは見晴らしが良すぎるのが気に入らない。
同じ市内の小高い場所に立った大建造物同士、低層住宅の上を視
線がすり抜けて、嫌でも目に入ってしまうのだ。
一番目立つのは、カーブを描いた外壁に滑らかな鏡面状の建材が貼
られた、シンボル的存在の大学の図書館。
太陽の動きにあわせて光を様々な角度に鈍く跳ね返すあれがまるで、
自分に合図を送っているように思えてならない。
これでは、朝から晩まで見張られているみたいだ。
――卑屈な連想を引き出しているのは、自分の罪悪感だ。
(トシが帰った後、あかり目を真っ赤にして戻って来たわよ。何か
あったのかなんて、誰が見ても一目瞭然でしょう。みんなシーンと
しちゃってねー)
(それで、俊哉君は気が済んだ? 今までの腹いせに、いたいけー
なあかりちゃんをいじめてすっきりした?)
「そんなわけ、無いだろ」
思わず漏らした声がしゃがれているのに驚いて、加納は起き上が
って、サイドテーブルに置いたペットボトルのジュースを飲んだ。
母親に、買って来て冷蔵庫に入れておいて欲しいと頼んだのだが、
その時に連想したのか、母親がしみじみと懐かしい話を口にしてい
た。
まだ、小学校に上がる前の話だ。
喉から鼻にかけての気管を拡げる手術で入院したことがあった。
簡単な手術だったのだが、術後しばらく医者から点滴以外で水分を
摂取するのを禁じられてしまい、それが大層辛かった。
飲んではいけないと子供心に理解していたけれど、かさかさの口に
水分が欲しくて、かといって母親に我儘を言うのも憚られて。
歯磨きをすれば少量でも水分を含めると気が付いて、何度も歯磨き
をねだった。
幾度目かに、母親に目的を看破されて。
怒られるかと身構えたら、涙ぐまれてうろたえたのだった。
駄々をこねない物分りの良さと、それでも子供ながらに知恵を働
かせて、音を立てて必死で歯ブラシの水を吸う姿に胸が痛んだのだ
と、母親が言っていた。
今のお兄ちゃんくらいの年になったら、体も大きいし、少しは気
が楽なんだけど。
それでも、苦痛を訴えないし、我儘も一切言わないし。
お兄ちゃんは物分りが良すぎて時々可哀想になるわ、と母親が寂し
そうに言い残して帰って行った。
(俺、物分りいいか?)
自分が不快だと感じる領域に、他の人間が滅多に抵触して来ない
だけだ。
手のかかる小さな妹達と自説を曲げない父親が居ててんやわんやの
家庭の中では、自己主張するより黙って座ってた方が話が早いから、
だから何も言わない癖がついていた、それだけだ。
だからいざ欲を出すと、加減を間違える。
加納は同室の人間を起こさないように静かに立ち上がって、窓際
のへりに腰掛けた。
あかりは、元気だろうか。
『言ったのに!』
昨日電話した時の、受話器の向こうの追いすがるような声が耳に
残って離れない。
『なのに何よ、いざとなったらいきなり逃げ腰で、ずるいよ!』
ずるいし意気地が無い、自分でも解ってる。
あの文化祭の夜に、はずみでも何でも好きだと言われて嬉しく無
いはずが無かった。
でも咄嗟に聞き返しそうになってしまった。
どこまでが、あかりの意志なのかと。
加納は、手に持ったボトルから一口飲んで、カーテンの隙間から
大学の方向をじっと眺めた。
真っ暗な中にぽつぽつと朱色の灯りが点在している。
あの辺りはゼミ棟だろうか、卒論の期限の迫った先輩たちが夜を明
かしているのかもしれない。
馴染み深かったはずのその光景が、今は遠かった。
明日、小康状態を保っている今の内にと、退院したその足で神戸に
帰る事になっている。
今のままでは大学をやめさせられるかもしれない。
けれど、仮に大学に復学出来たとしても。
そ知らぬ顔をしていれば、そもそも自分主導でここまで来ていただ
けなんだから、元通りになれるはずだ。
(これで、いいんだ)
周囲の状況に情緒の発達がついて行っていないあかりを、無理強
いしている罪悪感に苛まれるよりは。
一方通行の気持ちに、疲れて苛立つよりは。
(いいんだ)
あかりにとっても、それがいい。
周りとの兼ね合いにオドオドする姿を見るのがしのびない。
そう決めたら一気に気が楽になった。
だから、電話をしようと思った。
(遠いな……)
灯りが、とても遠い。
(はーらーへったー)
ごろごろごろ。
転がる私の背後に誰かが座る気配がする。
「あかりあんた、テニスコーチになるんだって?」
「そうですよー」
着替える必要の無いみわさんは、トイレでささっとメイクを直し
て身支度を整えて来たみたいだった。
トイレのメイク組と同着で着替えが終わっちゃう私が早過ぎるっち
ゃ早過ぎるのよね。
「誘われたその日に就職決めたらしいじゃない」
「ですよー」
「呆れた、もうちょっと考えたら良かったのに」
「いいじゃないですか。だって向いてると思うしさ」
目の端でみわさんが前髪を指先で形作りながら、ふうーん向いて
るんだ、と言う。
「確かにね、体力のみ一本勝負なあたりはそうね。あかりにぴった
りかも」
む、失礼な。
まるでそれじゃあ私が体力しか取り得が無いみたいじゃないのよね
え。
……その通りだけどさ。
「じゃあ私のお陰でもあるのよね」
みわさんがにっこりして私に乗っかって上から覗きこんだ。
みわめ、重いわよ。
「何でよ」
「だって、私と勝負した時から本格的に始めたのよね?」
「そりゃあそうだけどさ」
「卒業したら、社会人ランカー狙ってるんだって? 頑張ってよね。
あかりが有名になったら、私が彼女のきっかけになったっんだって
自慢する予定だから」
「何つうひねくれた応援するんですか」
遠まわしな声援と取れなくも無いけど、一言一言が憎たらしいの
よねみわさんったら。
いちいち私を見つけては絡みに来るんだから、もー。
それを絵里は「いじられてる」「可愛がられてる」とか言うんだけ
ど、いじ「め」られてるの間違いだと思うのよ。
しかし、良く知ってるわね。
さてはみわさん、さっきベタベタ張り付いてる間に聞き出したわね。
「うふふー、当たり。さっきトシに聞いちゃった」
「ったくさー。いつまで経ってもトシトシトシトシ好きだよね。高
校生の彼氏はどうしたんですか」
「ラブラブに決まってるじゃない。可愛いのよー、みわさん好きで
すなんて言われたらいい気分よ。年下も悪く無いわよね。でも、そ
れはそれよ。久しぶりに会ったんだから、ちょっと仲良くするくら
いいいじゃない」
「どうぞどうぞ。あたくし構いませんわよ奥様? 減るものじゃあ
りませんし、ご自由になさってマダーム? おーほほほほ」
手を口に当ててヲホホ笑いをするとみわさんが、あらそう寛大で
すこと、とヲホホ笑いを返して来るわけなんだけど。
どう思われます?
一年の時に、あれだけ間に挟んで争ったのよ。
普通は気まずくなると思うのよ、誰だって遠慮するでしょ。
それがあなた、しばらくサークルお休みして帰って来たら、けろっ
としてトシー(はあと)トシー(はあと)ってベッタベタし始めた
のよ。
んまー、あかりさん信じられないわっ。
あまりにベッタベタしてると、「こらあ!」って怒りに行くんだけ
ど、怒られてもニヤニヤ平然としてるわけ。
卒業で居なくなってせいせいしたぜっと思いきや、たまに帰って来
るとこれかい。
あんたどんだけ俊哉スキーなのかいと聞きたいよ。
なのに私の扱いはこれですよ。下敷きですよ。
まだ恨んでて嫌がらせしてるとしか思えないわよねっ。
みわさんったら執念深いんだから。
「でもたまには妬いてあげたらいいのに」
「何でさ」
「そういう辺りをチラ見せするのも大事でしょ。どうぞどうぞーな
んて言ってたら相手はガッカリしちゃうわよ。あかりは駆け引きっ
てものがわかってないわね」
みわさんが上で肘突いてくつろぎながら言った。
ちょっとあなた、いくらみわさんが小柄さんって言っても、上でゴ
ロゴロされたら重いです。
いい加減にしないと目の前でポヨポヨ揺れてる乳揉んじゃいますよ。
っていうかほっといて欲しいわ。
お義理で焼いた餅なんて美味しくも何とも無いわよ。
するとみわさんが、どうして食べ物の話にするのかしらこの子は、
と呆れたように。
「色気の無い子ね」
「もー、うっさいなあ。どうでもいいよそんなの」
この乳め、腹いせに揉んでやる。
みわさんにポヨポヨしてやったら、金払えと鼻をつままれた。
小柄な割りに結構なものをお持ちですなあ、とオッサンみたいな感
想を抱いてしまいましたよあかりさん。
「どうでもいいの? 昔色々とあった女が彼氏の周りをうろついて
たらムカムカするだろうと思うけど? 私なら消えて欲しいって本
気で思うわ。信じられない。私がトシなら、愛されてないなって思
うわね。トシかーわいそー」
みわさんは悪戯っぽくクスクス笑いながら私のほっぺたをツンツ
ン突いた。
ほんとこの人、私をいびってる時は楽しそうなんだ。魔女めっ。
「だって前のことじゃない」
そりゃ、後ならいけないと思うよ。
でも、みわさんと何があったって、それは私が付き合う前のことだ。
だから文句を言える筋合いじゃないし、やきもちはおかしいだろう
……と、私は思うのよ。
「後ならいけないけど、先ならさ。しょうがないじゃない」
私の答えを聞いてみわさんは、ん? と言いたげに、大きな目を
見開いて私をじっと見て、しばらく沈黙してから。
用事を思い出したと立ち上がって、着替えが終わった男子の集団の
方に向かって行った。
そしてみわさんは俊哉の腕をがしっと掴んで、おたおたしている
奴を引っ張って、隅っこの方に連れ去って行った。
(なんだなんだ?)
みわさんは俊哉に何かを耳打ちして、ひそひそと話している様子
だ。
俊哉が首を傾げて答えると、んまっ! と大きな声を上げてから、
はっとなって口を抑えて、みわさんははばかるように声のトーンを
落とした。
変なの。
「おーい、あかりは何食べたい?」
集まった数人で、これからの行き先を決めているようだ。
妙な店に決まっちゃって時間がかかっても困るのよね、あかりさん
腹へって倒れそうなんだから。
私は慌てて飛び起きて、意見を出すべく奴らの方に走って行った。
みわさんの奇行なんて毎度のことさ。
いちいち気にしてたら始まらないのだ。
みわさんが咎めるようなきつい目で俺を見上げた。
みわさんが言うには、あかりは、俺とみわさんの間に何かあった
と考えている素振りがあるのだそうだ。
人が着替えているわずかな間に、この人たちはどんな会話を交わし
ているのだと聞きたくなる。
全く、怖い人たちだ。
あかりには一回だけ、みわさんとの間に何かあったのかと聞かれ
たことがある。
俺は『精神衛生上聞かない方がいいよ?』って答えて、でも何も無
かったと言って流した。
何度も追求されたら、何度でも否定するつもりだった。
疑惑を持っている相手には言葉なんて無意味だろうと思うけど、何
も無かったんだから、そうとしか言いようが無い。
俺はみわさんの姿に自分を重ねて、吐き気がしていた。
おまけにみわさんは頭が良くて、的確に人の嫌がることを言っての
けてくれる人だ。
ある時期からは険悪な言葉しか交わされなかった。
そんなみわさんとの間に怪しい雰囲気なんて、生まれるはずが無い。
仮に、どうしてもムラムラするなんて事態に陥るなら、風俗にでも
行った方がましだと本気で思っただろう。
そこまで言うのは気が引けたからあえて言わなかっただけだ。
でもあかりは『ふーん、わかったよ』と無関心に答えたっきり、
二度と聞こうとはしなかった。
三年も前の話だ。
今更持ち出してみわさんは、何を言いたいのだろう。
「聞かないから、じゃ無いでしょう」
「聞かれなかったらわざわざ言わないよ。それに、気になるならも
っと追求するでしょ」
あかりは実にわかりやすい性格をしている。
思っていることが何でも顔に出るし、白黒はっきりしたがるから、
曖昧なままに置いておくなんてしないはずだ。
気になりだしたらソワソワして、遂にはずばっと核心から聞いてく
るに決まってる。
灰色の状態をよしとする子じゃない、気になる事柄を放っておく子
でもない。
だからあかりが聞かないなら、そういうことなのだ。
あかりが『わかった』と言うならば、俺の言葉に納得したってこと
だ。
「トシが勝手に思ってるだけでしょ。実際さっき、あかりが『しょ
うがないじゃない』って言ってたんだから」
「だったら、気にして無いんじゃない? 付き合う前のことだから
いいやとも言ったんでしょ」
みわさんが来た後、あかりは不機嫌になりブーブー文句を言って、
大体はご機嫌を取る羽目になる。
嫌なら嫌と言うし、発散するのも上手な子なんだ、あかりは。
俺は集団の中でわいわいと騒いでいる後姿をさりげなく見てから、
みわさんに視線を戻した。
いつも通りのあかり。
みわさんが何を気にしているのかわからないけど、考えすぎじゃ無
いだろうか。
「平気なんだよ。どうして急に、何年も前の話を蒸し返すの」
「もう、わかってないわねっ」
みわさんはやけに興奮している様子で、俺の胸を小突いた。
「私はね、トシの所に毎晩通ってたぐらいのことをあかりに言った
のよ。私の言い方だったら、完全に誤解してるわよ」
「誤解にはなるけど……いいんじゃないの、本人がいいって言うん
だから」
「いいはず無いじゃない」
かー、いらつくっ、とみわさんは小さく体を揺らした。
「あの時、あかりは真っ青になってた。かなりのダメージ受けてた
と思うわ」
「……そうなんだ」
「呑気ね。トシはあかりが元気になってからの姿しか見てないから
知らないのよ。何も食べてないんじゃないかってくらいやつれて、
あんたどうしちゃったの!? ってくらいガックリ落ち込んでて、口
数も少なくなって。さすがに心配したわよ」
「えー。先輩勝手ー」
「うるさいわね」
みわさん逆ギレ。
しかし、あかりがそこまで落ち込んでいたなんて、知らなかった。
あかり本人も言わなかったし、周りも口をつぐんで何も教えてくれ
なかった。
絵里さんにはぽかりと頭をはたかれたけど、それだけだ。
鎌田にあかりが元気が無かったとは聞いたけど、みわさんが心配す
るくらいなんだから相当な落ち込み具合だったのかもしれない。
(知らなかった)
俺は少し驚いていた。
何でもかんでも語るに落ちるわかりやすい子だと思っていたのに、
何年も後になって初めて聞かされるとは。
……しかし、自分でやっておいて何を言ってるんだ、この人は。
本当に、難しい人だ。
難しいみわ先輩は腕組みして俺を責めるような目で睨んだ。
「トシだったらどう思うの。あかりの昔の彼氏が同じサークルに居
たら。そいつに、俺はいただいちゃったぜーなんて言われるのよ」
「んー……いい気はしないかもねー」
いい気はしないどころか、早く消えろと呪いをかけ続け以下略。
たとえ昔のことだ、不可抗力だとわかっていたって嫌だろう。
みわさんは、やっとわかったかと頷いてから、俺にびしっと指を
突きつけた。
「それなのにあかりはずっと、私とトシの間を疑ったままで黙って
たのよ。あかりの気持ちがわかった?」
「んー、わかったかも?」
「んー、じゃないわよ。あほっ。どんかんっ。バカトシっ。私はね、
あんた達が付き合い出した時点で全部わかりあってると思ってたの。
普通はそうでしょ。じゃないと知ってたら私だって……まさかって
……」
みわさんが口ごもって黙った後を、俺は察した。
察したから、少しだけ笑みが出た。
(本当に、複雑な人だ)
みわさんが居心地が悪そうに目を彷徨わせてから、うるさいっと
俺をまたもや小突いた。
「先輩逆ぎれです」
「トシの、何でもわかってるんだ的な態度がいや。むかつく」
「ごめんね。でも、だから、俺とみわさんは、絶対に上手く行かな
かったと思いますよ」
「私もそう思ってたわよ。ふん」
あっさり同意してからみわさんは。
教えてやったんだから感謝しなさいよ! と捨てゼリフめいて吐き
捨ててから、友人の所に去って行った。
照れなくたっていいのに。
俺は心の中でだけくすりとしてから、彼女を見送った。
みわさんは、可愛がってたあかりを嫌いになれなかった。
あんなことがあって、時間を置いて帰って来て、あかりと今まで通
りに付き合ったり出来なくなっても彼女は。
俺をだしにして、あかりとじゃれ合ってた。
気まずい関係になるよりはいいだろうという、彼女なりの気遣いだ
ったのだと思う。
俺は体のいい当て馬みたいなものだ。
俺を間に挟んでいたけど、あかり相手のみわさん流のスキンシップ
みたいなものだったんだ。
だから俺は彼女が嫌いじゃ無いし、みわさんに構われても放って
おいた。
みわさんはきっと、それを今になって、後悔しているんだろうと感
じた。
恐らくは、あかりを傷つけていたのでは無いかと。
「お好み焼きもいいねっ!」
弾んだかん高い声に意識をぱっと引き戻された。
あかりがコテを返す仕草をして、いいねいいねと繰り返す。
(お汁粉何杯も食べて無かったか?)
気にしてるって態度では無いような……。
どこの悩める乙女が、焼きソバと豚玉ともんじゃ全部平らげようと
舌なめずりするんだろう。
やっぱりみわさんの、考えすぎじゃないかな。