頭に血が昇って手近な男性を初体験に見繕った私が何を言うかと
思われそうだけれど、元来私は、慎重派で怖がりなのだ。
だから長年見つめて来た従兄弟に逃げられるような事態も起きてし
まうわけで。
安穏とした暖かい関係を壊すのを恐れて意思表示出来なかった間に、
彼が伴侶を見つけてしまうわけで。
一歩を踏み出そうかな、いや……やめよう。
ちょっと足元を見て? 大丈夫? 本当に崩れない?
それとも、後ろから何か来たりはしない? と延々と可能性を検討
し過ぎて、結果機会を逃すような所が有るのだ。
けれど機会を逃すと同時に、安泰と安全を確保していると思えば、
私の考え方は正しくは無いか。
「うん。そうじゃない?」
友人の園(その)が、私に向けてそう言った。
「正しいか間違っているかって二つで聞かれたら極端だけど。あえ
てどちら寄りかと聞かれたら、私は正しい方寄りかなーって思うけ
ど」
キャラメルミルクティーを口をすぼめて吹いて冷ましながら、園。
二人掛けのシルバーのテーブル越しに、キャラメルの甘い匂いがふ
わりと流れて来た。
私は自分のショコラ・オ・レにスプーンをまっすぐに入れて、静か
に、時計回りに渦巻き模様を作った。
「そう……だよね」
「だって迷ってるんでしょ。だったら行かない方がいいじゃない。
香奈枝って絶対後悔するタイプ」
「うん……かな?」
「迷うけど他に行く先も無いからって入った今の会社だって。入っ
たら怖いおばさんが居ていじめられてさ。やめときゃ良かったって
言ってたじゃない」
肘を突いて無い方の手でスプーンを弄びながら私は恨みがましげ
に園を見上げた。
折角の休日なのに嫌な事を思い出させなくてもいいと思うのだ。
「ごめんごめん」
あはは、と園が声を立てて、私の手の平を軽く一叩きした。
「もう言わない言わない。たださ。香奈枝って熟考して選んだ時は、
大抵文句は言わないよね。だから、そういう事じゃないのって言い
たかっただけ。頭の中で『まずいまずい』って理性が訴えるなら、
相手が何したって気に入らないんじゃないの」
なるほど、そうかもしれない。
修平さんの様な男性には、頭が警報を鳴らすのだ。
もっと一般的な相手にしなさいよと、理性が私に囁くのだ。
事務所が無くなって今後の収入が怪しいような人、タイプが全く
合わなさそうな彼。
それに年だってずっと上で、共通点が何も無いのに、その中であえ
て彼にしなくてもいいんじゃないのかと。
そう思って斜めに見ているから小さな事が目について、あっけな
く幻滅してしまうのかもしれない。
こんな時には、私を良く知る人間に聞くのが一番なのだ。
傾向と対策を知っているから、いい方向性を提示してくれる。
(園に聞いてみて、良かった)
私は満足を覚えて、カップに口をつけた。
こくりと飲み下したショコラが、まろやかに口の中に広がって、
喉をするりと滑り降りた。
いずれにしても、もう閉じた会社にしては、物が有り過ぎやしな
いだろうか。
今まで通りの配置なのはおかしくは無いかと私は意外に感じた。
(私には、関係無いけれど)
きょろきょろとしていたら、ドアから出てきた社長と目が合って、
彼女は私の挙動で察した様だ。
「私の会社は終わりだけど、事務所はこのままなの」
「そうなんですか」
「修平がね」
どきりとする私に体の左半身を向けて、社長は腕組みして椅子に
寄りかかった。
「ここは引き受けるって言ってくれたから」
「引き受ける? 同じ会社を続けるって意味ですか」
「ううん、違うのよ。そうじゃなくて」
社長が腕時計に、何故か気遣わしげに視線を落とす。
どうしてもこの時間しか予定が空かないと社長が言うので、退社し
てから私はここまで来たのだ。
だから恐らく夜遅くなっているのを気に病んでいるのだろう。
「ここの雑居ビルって終わってるのよ。不況でテナントさんがどん
どん出て行っちゃって。で、家主さんがね、困ってるみたいでね。
うちは一番古株だから仲が良いのね。そしたら修平が。俺が適当に
何か続けるから借りとけって言うのよね。だから片付けもゆっくり
するって」
「……何かって?」
「さあ」
いい加減でしょう? と社長が困ったように笑って首を傾げた。
本当に行き当たりばったりで困るわと言いながら社長は、袖を再び
捲った。
「ごめんねこんな遅くに。タクシー代をお渡ししようと思って今財
布を見たら、持ち合わせが無いのよ」
「いいですよ、電車で帰りますから」
なるほど、帰ろうとする私を遮って奥に入って行ったのは、タク
シー代を渡すためだったのかと納得した。
なかなか戻って来なかったのは、探し回っていたのかもしれない。
でも、駅までは心細いけど、少しの道のりだし徒歩で構わない。
「駄目よ。ここって酔っ払いも多いし、変な人良く出るのよ。香奈
枝ちゃんに何か有ったら先生に申し訳ないから、タクシーがわりを
呼んでおいたから」
「タクシーがわり?」
こっちの方がよほど申し訳ない可能性は有るけれどと、社長が呟
くのは耳に入らなかった。
何故なら私はその時、いつの間にかドアの前に立っていた人影に目
が釘付けになっていたからだ。
『彼』は風呂上りとおぼしきボサボサ頭だった。
相変わらずよれよれのジーンズに厚手のフリースを引っ掛けた姿で、
ドアに嵌められたガラスを拳でどんどん叩いていた。
普段のレザーやスエードのジャケットに、ツンツン頭に整髪したそ
れなりにぴしっとした姿ではなく、使用後のあの姿だ。
(……修平さん、また浮浪者みたいだし!)
修平さんはガラス越しに斜め下を指差して、一生懸命「あー」
「いー」と繰り返している。
あー、いー、とは何だろうと、私と社長はしばらく修平さんのパン
トマイムを呆気に取られて眺めていた。
「あっ。『カー』『ギー』ね。うっかり閉めちゃってたわ」
はいはいー、今開けるわーと社長が何故か機嫌の良さそうな軽や
かな足取りで、事務所のドアに向かった。
「適当に放り出しといてー」
修平さんが、鍵を差し込みながら正面を向いて言った。
内装がレトロなら鍵もレトロ。
今の車にマスターキーで付けられている、銀色一色のシロモノだ。
窓の開閉はハンドル、サイドミラーは手動、こんな車見た事が無い。
さすが二十年物だ。
修平さんがエンジンを掛けると、ブロブロと危険な乾いた音がし
て、車全体が縦に揺れた。
咄嗟に私は、シートベルトを握り締めた。
恐らく、急ブレーキに反応してロックしてくれないだろう、それに
前面からエアバッグも出ないだろう。
(だ、だ、大丈夫なのかしらっ)
「なあんだよ、何びびってんだよ。大丈夫だって」
私の硬直した姿に、修平さんが呑気な一言。
「運転手の腕がいいしな、こいつとは長年の付き合いだからぜっ
てー事故ったりしない」
「長年って……どれくらいですか」
「ん? 二十年かなー。その時こいつは十歳越えててさ。格安で先
輩から手に」
素早く計算して私は悲鳴を上げた。
「じゃあこれ、三十年もの!?」
「いや、確か俺の四つ下だから……」
「三十四年!? いやーっ!」
彼のフォローはどう考えたって逆効果だ。
私は絶叫して、シートベルトにひしとしがみついた。
俺より下だって言ってるのに失礼だなと修平さんが心外そうに呟い
て右腿を上下させると、がたんがたんと抗議しながら、ポンコツ車
は前に進みだした。
自腹でタクシーに乗った方がいいし、どう考えてもこれに乗るな
ら歩いて帰った方がよほど安全だ。
社長ったら、何を考えているのだろう。
(たーすーけーてー!)
「大げさだねー香奈枝ちゃんは」
「す、すみません」
責めるでもなく、からかうような口調の修平さん。
私は自分の意気地の無さが情けなくて項垂れた。
車高が高いせいで視界がおかしくなるし、曲がると安定が悪いの
か車が揺れる、そのため少し酔ってしまった。
二人用の狭い車内は居住性が悪くて、座り心地も最悪だ。
口に出して言うのはさすがに憚られたけれど、私が青くなって事あ
るごとにきゃ、とか、ひっ、とか声を漏らすので、修平さんが首都
高を降りた所で休憩に停めてくれたのだ。
「まあー、しょうがない。こんなの乗った事ねえやな、香奈枝お嬢
ちゃんは」
むっ。
私が嫌いな彼の言い草である。
私は、お嬢ちゃんじゃありませんよと、小声で訂正を求めた。
「修平さんから見たらまだまだかもしれませんけれど。これでも、
お仕事だって見つけたんです」
「あー、らしいね。調子どう?」
また、調子どう? だ。
この聞き方も私は余り好きじゃない。
いかにも社交儀礼といった風で、修平さんにおざなりに扱われてい
る様に感じてしまう。
(そりゃ、そりゃ。私なんて、私なんてだけど)
修平さんからしたらそうなのだけど。
目も合わせてくれないし、声を掛けて来たと思えば調子どう? し
か言わないし、それだけの存在だってわかってはいるけれど。
ふと私は、それこそが以前から変わらない修平さんの私への接し
方だったと気が付く。
『あれ以来』変わったような気がしているのは、私の独りよがりな
錯覚にしか過ぎない。
元々、何の感情も無い同士の一回きりの行為だったのに、私は何を
増長しているのだろう。
(むっとする筋合いじゃ、無いのよね)
そこで私は、修平さんの視線を感じて、慌てて話を繋げる。
「……叱られてばかりです。駄目駄目です」
修平さんが黙って先を待っているので、私は仕方なく、自分にと
っては余り楽しく無いこの話題を続ける事に決めた。
私はココアの缶を両手で包んで手の平を暖めながら俯いた。
「気が利かないし、教育係の人にいつも怒られてます。修平さんの
言った通り、私って世間知らずなんだなあって思い知りました。ほ
んと駄目ですね」
「やー、でも」
私の言葉の合間にするっと修平さんが入ってくる。
修平さんは話の継ぎ目に入ってくるのが上手だ。
至極スマートに、話の終わりの言葉を掬い取って返して来る。
彼は前を向いてコーヒーを一回飲んで、あごをつるりと撫でた。
「こないだ。香奈枝ちゃん随分しっかりしたなあって俺は思ったけ
ど」
「そうです……か?」
「うん。普段着っぽい格好やめたせいかもしれないけど。顔つきが
ね。締まって来たと思ってびっくりしたよ。女の子ってちょっと見
ないと変わるもんだなってオジサンびっくりして照れちゃった」
――見て、くれてたんだ。
私はラークの赤い箱を縦に振って一本咥える横顔を、ちょっとし
た感動を籠めて見つめてしまった。
私なんて、彼の目に入っていないと思っていた。
「こないだごっそうさん。プリンうまかった」
「あ、はい」
修平さんは、愛用のベコベコジッポの蓋を親指で弾いて、火を点
けた。
真っ暗な車内で際立って赤く染まった彼の顔を見て、私はまた、小
さな感動を覚える。
お土産のプリンを食べてくれただけでこんなに嬉しい気持ちにな
る自分って……単純?
「あの、私最近あのパティスリーに凝ってて。会社の近くに有るん
です。外はぱっと見た感じ普通の家っぽくて、洋風で可愛いんだけ
ど、でもよそのお宅っぽくて入りづらいんだけど。店員さんは感じ
が良くて、どれも美味しいんです」
「ふーん」
修平さんのふーんは、何だか感じの良いふーん、だった。
聞いてくれてるなって思わせる、ちょっと強めの合いの手だった。
おざなりな、調子どう? とは全然違う類の、親しげな。
私はくだらない話をしてるなって自覚が有ったのだけれど、何と
なく今この空気を逃したくなくて、だから修平さんと、もっと話が
したかった。
「最近、っていうか給料が出てからなんですけど。すっごく買い物
にはまってて。自分でお仕事して貰ったお給料なんだなって思った
らはしゃいじゃって。いけないって思うんですけど、つい浪費しち
ゃってるんです。それで使いたくてしょうがなくて、帰りにそのパ
ティスリーに寄るのが習慣になってるんです。お洋服も、今までみ
たいなフレアースカートとかじゃなくて、もっと社会人っぽい服が
欲しいなあって思って。帰りに買い過ぎたりしてて」
そこまで一気に話して私は、さすがにとりとめが無さ過ぎると思
って口を閉ざした。
修平さんみたいな大人の男の人からしたら、何を当たり前の事をと
思われるだろう。
自分で子供っぽさを印象付けてどうする、私の馬鹿。
腿の上で拳を握って私は、次は話術を勉強して来ようと決めた。
もっとそつがない、社交的な話が出来るようになりたい。
そっと横目で伺うと、てっきりつまらなそうにしているのかもし
れないと思った修平さんがやけに楽しそうに、窓枠に寄りかかって
私を正面から見ていた。
くっきりと平行二重の垂れ目を細めると、修平さんの目尻に、深く
笑い皺が出来た。
「すげーわかる」
修平さんが一言。
それから彼は、口の端にラークを咥えて煙を吐き出した。